2013年8月 9日 (金)

長崎の鐘

今日は長崎原爆祈念の日です。

1945年8月9日午前11時2分。アメリカの爆撃機から投下された原子爆弾は、一瞬にして15万人の生命を奪いました。

今日は全国的に猛暑で、行楽地や避暑地にいる方も多いのではないでしょうか。ほんのひと時でも、長崎のことを思ってほしいと思います。

長崎と原爆に関する紹介ビデオをYouTubeで見つけました。

ここをクリック

長崎の原爆で忘れてはならないのは、当時長崎医科大学にいた医学博士、永井隆氏のことです。

1

敬虔なクリスチャンで、被爆直後から自らも負傷しながら救援活動を行ないました。その献身的な姿勢は多くの人々から感謝されたのは言うまでもありません。

2

戦後、全国をご巡幸された昭和天皇が長崎を訪問した時に、病床の永井氏をお見舞いしたことは有名です。

永井博士の詳しい情報は以下のウィキペディアに載っています。

永井隆(医学博士)

ぜひご一読ください。

そして、ヒロシマ、ナガサキの記憶を忘れないようにしましょう。

2010年12月24日 (金)

「12の月たち」

クリスマス・イヴですね。

この季節になると思い出すのはマルシャークの「12の月たち」(評論社)という絵本です。

日本では、児童文学として「森は生きている」というタイトルでも出版されています。

タイトルの「12の月たち」は、薄幸の少女マルーシカの前に現れる「1月」「2月」「3月」…という12人の精霊あるいは神たちのことです。

スラブ民話、つまりロシア地方の昔話がベースになっているようですが、多神教からの影響でしょうか。キリスト教とは違うスタンスですが、なぜかクリスマスの季節に舞台化されたり、絵本や書籍が店頭を飾っています。

と思っていたら、この絵本のあとがきに「チェコスロバキアの一地方、ボヘミアの民話」だそうです。

元々の「森は生きている」は戯曲で、あらすじも絵本とは少し違っていたように記憶しています。

かなり昔のことですが、私が現役の保育士だった時に、年長組を担任してクリスマス会で披露した劇が「森は生きている」でした。12の月たちだけで、12人の配役が決まるので、劇にするには持ってこいの作品だと思いますが、現代の若い保育士さんたちは、この物語自体を知らない方が多いようです。

名作を後世に伝え切れない、私たちの責任ですね。

また「森は生きている」を読んでみたくなりました。

2008年8月 9日 (土)

長崎の鐘

今日は長崎原爆祈念日。

長崎には二度訪れたことがあります。

最初は高校3年生の時の修学旅行。この頃は、まだ先生たちが修学旅行で生徒に何かを学ばせようという気概がありました。長崎市内にバスが入り、当時19歳のガイドさんが涙を流しながら長崎の被爆について話してくれました。車内は静まりかえり、誰ひとりふざけたり、茶化したりする人はいませんでした。

あの頃は、見ることのなかった戦争への視線がまだ誰の心にもありました。

二度目は、前職の研修旅行でした。原爆資料館もリニューアルされ、悲惨な歴史を後世に残そうという努力が見られました。

前職の管理職が、「原爆の悲惨さを子どもたちに伝える必要はない。怖いというイメージや、被爆者の姿をお化けと同じように考えてしまうからだ」と言っていたのが印象的でした。

本当ですか?

怖いということをおしえることはいけないことなのでしょうか?

一般市民の街へ無差別に原子爆弾を投下したアメリカの市民は、政府の意図的な政策により原爆の悲惨な実態についてはほとんど知らないようです。「戦争を早期に終わらせるために原爆を使用した」という虚偽の説明にアメリカの市民は疑いを持たないようです。

そして日本の市民も…

原爆の歴史から目を背けることは、原子爆弾の存在を肯定することです。

「核兵器を持つことによって、我々は国際社会で一人前としての発言力を得た」などと言う国に対して、なぜ日本は黙っているのでしょうか。

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長崎と言えば、長崎医大で被爆した永井隆博士を思い出します。

そして、藤山一郎が唄った「長崎の鐘」。

長崎の鐘」
  作詩:サトー・ハチロー
  作曲:古関裕而
  歌 :藤山一郎

1)こよなく晴れた 青空を 悲しと思う せつなさよ
 うねりの波の 人の世に はかなく生きる 野の花よ
 なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る

2)召されて妻は 天国へ 別れて一人 旅立ちぬ
 かたみに残る ロザリオの 鎖に白き 我が涙
 なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る

3)つぶやく雨の ミサの音 たたえる風の 神の歌
 耀く胸の 十字架に ほほえむ海の 雲の色
 なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る

4)こころの罪を うちあけて 更け行く夜の 月すみぬ
 貧しき家の 柱にも 気高く白き マリア様
 なぐさめ はげまし 長崎の ああ 長崎の鐘が鳴る

(永井隆博士詩)
「新しき朝の光の さしそむる荒野にひびけ 長崎の鐘」

最後の一行は、病床を見舞った藤井氏に永井博士が贈った短歌を後に藤井氏が旋律をつけて歌の最後に挿入したそうです。昭和30年代に発売されたレコードには唄われているそうです。

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それにしても、アメリカはなぜ長崎を標的にしたのでしょうか?

歴史の資料によれば、第一目標は小倉市で、長崎は第二目標だったそうです。小倉市が雲で視認できなかったため長崎に変更された、となっています。

本当でしょうか。

貴重なプルトニュウム爆弾を投下するのに、雲があって見えないから変更した、というのは短絡的すぎるような気がします。

私は勝手な推測ですが、目標はあくまでも海軍の造船所など重要な施設があった長崎だったと思います。ところが長崎はキリスト教の街で、戦後、殉教の地として世界的に注目されるようになります。平和、反核運動の盛り上がり、反戦、反米の勢いに危機感を感じたアメリカ政府がねつ造したのではないでしょうか。

戦争当時からアメリカは心理戦を研究していました。京都や奈良を爆撃すれば、日本人の反感をかうことをよくわかっていました。戦後日本人の世論操作をするためには天皇家は存続させなければなりません。東京から遠く離れた広島や長崎が選ばれたのは、アメリカの心理戦略があったのです。

しかし、長崎はキリスト教の街でした。ここにアメリカの誤算がありました。そこで必死に「戦争を終わらせるためには仕方がなかった」宣伝をしたのです。

これは、あくまでの私の推測にしか過ぎません。

核兵器が削減されることはあっても、なくなることはおそらくないでしょう。

人間は愚かです。

今日一日、平和のために祈りましょう。

2007年12月23日 (日)

クリスマス礼拝

クリスマス礼拝
今日は、調布バプテスト・テンプルという教会へ二女と一緒に行きました。

数年前、放送大学のスクーリングで知り合ったMさんの紹介で、ここ3年ほどクリスマスの礼拝に参加させてもらっています。

信者でもない私たちをあたたかく迎えてくれる雰囲気が、この教会には感じられます。

厚い聖書を開き、牧師さんの話を聴きながら、あわただしく過ぎ去ろうとしている一年を振り返りました。
世間一般のクリスマスとは違い、イエス・キリストの誕生日を静かにお祝いしたいと思います。

2007年12月20日 (木)

クリスマスデー

クリスマスデー

この季節、多くの保育園、幼稚園でクリスマスの催しが開かれていると思います。

私の勤務する保育園でも、今日は「クリスマスデー」でした。年長組の子どもたちがキャンドルサービスをしたり、ハンドベルの演奏をしました。

そして、なんと言っても、メインはサンタクロースの登場です。

クリスマスデー

たくさんのプレゼントを持ってきていただき、ついでにみんなと一緒に記念写真まで写りました。

さて、保育園のクリスマスには必ずと言っていいほどサンタクロースが登場します。でも、ひねくれ者の私にはなぜサンタクロースがわざわざみんなの前に出て来なければいけないのか、不思議に思うことがあります。

サンタクロースは絵本やファンタジーの世界の人なので、何も実際に姿を見せなくても、その存在は子どもたちに十分理解できるものではないかと思います。クリスマスイブの夜にわくわくしながら待って、そしてクリスマスの朝にプレゼントが置いてあれば、「ああ、サンタクロースのおじさんがプレゼントを持ってきてくれたんだ」と思えば、それでいいような気がします。

夢の世界の人物像を私たちは善意で壊しているのではないでしょうか。

私はキリスト教の幼稚園に通いましたが、クリスマスの催しは覚えていても、サンタクロースが出てきた記憶はありません。それでも、かなり大きくなるまでサンタクロースの存在を信じて疑いませんでした。

子どもの夢をもう一度考えてみませんか?

2007年8月11日 (土)

「イエスの生涯」

「イエスの生涯」
「イエスの生涯」

エルネスト・ルナン 著

忽那 錦吾/上村 くにこ 訳

2000年8月20日初版

人文書院 発行

著者のルナンは19世紀のフランスの学者です。この書は今から140年程前に書かれました。

とても読みやすい文章で、イエスの生い立ちからていねいに描かれていて、深い感銘を受けた一冊となりました。

フランスでは現在でも何百刷と読み継がれている名著だそうです。作者のルナンは初期キリスト教の歴史を膨大な書物に書き、本書はその第一巻になります。

この著作が日本では一般の出版社から刊行されたことは注目されることでしょう。つまり、キリスト教専門の出版社からではない、ということです。キリスト教関係の方に直接聴いてみた訳ではありませんが、信者の方にとっては、この書籍はもしかしたら無視するものなのかもしれません。

「イエスの生涯」というタイトルですが、聖書に書かれたことがすべてここに表されているわけではありません。まず、イエスが起こしたとされる奇跡の数々―湖の上を歩いたり、死者を甦らせたり、というエピソードはまったく書かれていません。また、物語の最後はイエスの処刑で終わっており、その後の「復活」は描かれていません。できるだけ生のイエスに迫ろうとしているルナンの意気込みがうかがわれます。しかし、このあたりは、信者の方にとっては許せないのかもしれません。

訳者の解説によれば、作者のルナンはイエスとキリスト教を大変愛していたそうです。

この書物は、イエスを身近に感じるものとして、私はとても素晴らしい本だと思います。数々の挿絵も感銘を受けました。読み終えていっそうキリスト教に関心を持つことができたと思います。今は続編を読み始めました。

2007年4月22日 (日)

「POWER FOR LIVING」


「POWER FOR LIVING」



ジェイミー・バッキンガム 著



アーサー S.デモス財団 発行



2007年1月1日 刊行

シンガー・ソングライターの久米小百合さん(かつて「異邦人」を歌った久保田早紀さん)や、本田路津子さんのメッセージは、本当に心を洗われる気持ちになります。

2007年4月21日 (土)

「ナザレのイエスは神の子か?」

「ナザレのイエスは神の子か?」

リー・ストロベル 著

峯岸 麻子 訳

いのちのことば社

2004年3月15日 初版発行

シカゴ・トリビューン紙の記者であった著者は、妻がクリスチャンになったことをきっかけに、キリスト教の本陣であるイエスについて、徹底的に調べようとします。元々宗教に対して懐疑的であり、自分の目で見たものしか信用しない根っからのジャーナリストである著者は、アメリカで著名な神学者、哲学者など13人の専門家にインタビューをしたのが、本書の中核になっています。

著者が投げつけた疑問点は、おおよそ次のとおりです。

  1. 聖書に書かれている福音書の著者たちを信用することができるか。
  2. 福音書は、綿密な調査にもその真実性を失わないか。
  3. 福音書は、長い歴史の中で正確に伝承されたものか。
  4. 福音書以外にイエスに関する有力な証拠はあるのか。
  5. 考古学は福音書の内容を証明できるか。
  6. 歴史上のイエスと福音書に登場するイエスとは同一人物か。
  7. イエスは自分が神の子だと確信していたのか。
  8. 自分を神の子だというイエスは心理学的に正常な精神の持ち主だったのか。
  9. イエスは神の属性をすべて兼ね備えていたか。
  10. イエスと預言された「救い主」とは一致するのか。
  11. イエスは死んだふりをしただけで、復活はでっち上げではないのか。
  12. イエスの遺体は、本当に墓から消えたのか。
  13. 十字架による死後、復活したイエスを目撃した人はいるのか。
  14. イエスの復活を裏づける証拠は存在するのか。

これらの疑問に専門家たちは明快かつ納得ができる答えをしていきます。ここでその内容を書くことはできませんが、非常にわかりやすく、読んでさわやかな気持ちになるくらい、おもしろいインタビューが続きます。そして著者は、インタビューの後に、ひとつひとつの疑問とその答えを綿密に考察していきます。

そして著者、リー・ストロベル氏は、懐疑主義を棄て、現在では洗礼を受けクリスチャンになりました。これだけの事実が明らかになれば、それは自然な成り行きなのではないかと思います。

******

この一冊の本によって、私はキリスト教が非常に身近なものとして感じられ、素直に神の存在を信じるようになりました。と言っても、教会に通っているわけではなく、その点ではいい加減としかいいようがありませんが…

私が今まで宗教に対して疑問を持っていたのは、ある特定な宗教が政治活動と結びついていて選挙のたびに身近でない人から手紙が来たり、訪問を受けたりしたことがあるからです。また、社会的な弱者に近づき、入信を勧めたり、物品を買わせたり、お布施のようなものを納めさせたり、ということが経験的に事実としてあるからでした。

キリスト教についても、さまざまな宗派があり、教会組織があり、どこがどう違うのか、今でもよくわかりません。もちろん、怪しいと思われるものもあり、ぜひ礼拝に参列してお話を聴いてみたいと思うものもあります。

この本を読むきっかけになったのは「パワー・フォー・リビング」という本を読んだことに始まります。その後、私は現在もキリスト教に関する書籍を読み続けています。このブログでも紹介していきたいと思います。

私は、いま素直な気持ちで、神の存在を信じ、毎日、神に祈っています。

それは、私自身だけでなく、私を取り巻く人々、家族、出会った人々(例えば保育園を卒園した子どもたち)、みんなが愛にみちあふれ、幸せになれるよう、毎日祈り続けています。

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