「明日への遺言」

「明日への遺言」という映画を観ました。

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第二次世界大戦後、名古屋の住宅地一帯を無差別爆撃を実行したアメリカ軍搭乗員処刑の罪に問われ、戦犯裁判にかけられた元東海軍司令官・岡田資中将。空爆は軍事施設に限定した国際条約に違反した無差別爆撃を行なったアメリカ軍搭乗員はジュネーブ条約に規定された捕虜ではなく、戦犯であるという主張を一貫として行ない、法廷闘争を法による闘い―「法戦」と名づけ立ち向かう岡田資中将。

部下を守り、すべての責任は命令を下した自分にあるとする岡田氏の潔い姿は、次第にアメリカの検察官や裁判官をはじめ、法廷内、収容所内にいる人々の心を動かしていきます。

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そして、言い渡された判決。

死と向き合い、若い部下を思い、家族の行く末を思い、そして生命をかけて責任を果たした岡田資中将。

その日、立ち会った僧侶が「お別れです」と言葉をかけたのに対し、「なあに、ちょっととなりまで行ってくる気分ですよ」と言って処刑場へ消えた…

ほとんどのシーンが法廷での場面で、主演の藤田まことの迫真の演技が光りました。弁護士役のロバート・レッサー、検察官役のリチャード・ニールもいい味を出しています。

さまざまな偽装問題が毎日のように報道される現代。怒鳴るように言い訳する人々。自分さえ良ければいい、自分だけを大切にする、という風潮が強い世の中。家族の愛情に支えられ、一旦自分が背負った責任は最後まで果たそうとした岡田中将のような人は、現代社会にはいないように思います。

決して過去の話というだけで片づけるのではなく、私たちは社会に生きる以上、何かしらの責任があることを自覚する必要があるのではないでしょうか。

大人として、父として、母として、企業人として、社会人として…

岡田中将が単なる意地だけで主張していたのではなく、自ら信仰する仏教の教えに従い、お経を唱え、座禅を組み、瞑想をしながら自分の気持ちの糸を張り続けた姿には、学ぶものが多いと思います。

自分の主張だけをすればいい、というのが世の中の流れのようですが、私は重荷から逃げ回ることよりも、与えられた責任を最後までまっとうすることを選びたいと思います。

今、責任ある仕事をする上で、岡田中将の気持ちに少しでも近づきたいと思いました。

若い人たちにも観てほしい映画です。

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「犬と私の10の約束」

「犬と私の10の約束」という映画を観ました。

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人が犬と一緒に暮らす時の約束を「犬の気持ちからのお願い」という形で「犬の10戒」というのがあるそうです。それを紹介するサイトは世界に100万以上あるそうです。

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  1. わたしと気長につきあってください。
  2. わたしを信じてください。それだけでわたしは幸せです。
  3. わたしにも心があることを忘れないでください。
  4. 言うことを聞かない時は、理由があります。
  5. わたしにたくさん話しかけてください。人の言葉は話せないけど、わかっています。
  6. わたしをたたかないで。本気になったらわたしの方が強いことを忘れないでください。
  7. わたしが年をとっても、仲良くしてください。
  8. あなたには学校もあるし友だちもいます。でも、わたしには、あなたしかいません。
  9. わたしは10年くらいしか生きられません。だから、できるだけわたしと一緒にいてください。
  10. わたしが死ぬとき、お願いです。そばにいてください。そして、どうか覚えていてください。わたしがずっとあなたを愛していたことを。

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とても感動する映画でした。

人間よりもはるかに寿命が短い犬とのつき合いは、生まれる時から死ぬ日まで続きます。この10戒は、犬と人との約束だけではなく、人と人の約束でもあるように思えます。

特に、最後の10番目の約束は、逝く時に愛する人たちが見送ることの大切さを教えてくれます。

なぜ、つらい死に向き合わなければならない犬を人は家族にするのでしょうか。

映画の中で、主人公のあかりは犬のソックスをとても大切に可愛がります。しかし、中学、高校、大学と成長するにつれて、あかりの人生も多様になり、ソックスとのつながりは希薄になってしまいます。

しかし、ソックスはいつまでもあかりのことを待っています。獣医になったあかりがそのことに気がついた時、ソックスは天国へ旅立ちました。

ある意味では、大切な人との別れの練習を犬はさせてくれているのかもしれません。

すべての動物は、人と共存する生き物です。特に、犬や猫は、人と一緒に歩んできた歴史があります。そのことを深く考えさせられました。

私は、主演の田中麗奈さんと、父親役の豊川悦司さんの親子関係がとても印象に残りました。私は実生活では一応3人の娘の父親ですが、その役割をはたしているかというと、とても疑問です。山あり谷ありの親子の歴史を観たようです。

名作ではないかもしれませんが、とても素晴らしい作品でした。

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「砂時計」

「砂時計」という映画を観ました。

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エンド・クレジットが流れるまでまったく知りませんでしたが、原作は芦原妃名子さんという方による少女漫画です。

最近のドラマは原作がマンガばかりだなぁ、と感じることが多かったので、「砂時計」もそのことを知っていたら、劇場で観ることはなかったかもしれません。

映画は、島根の自然を十分に見せていました。忘れられた里山の風景を堪能することができました。

私のように、今まで生きた年数が長いと、このような恋愛ものは、とても複雑な気持ちにさせてくれます。物語の結末も気になりますが、自分の経験して来たこととだぶってしまいます。

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砂時計の下に落ちた砂が過去、細いところを通り抜けている真ん中が現在、そしてまだ上に残っている砂が未来。これは当たり前のようで、とても奥が深いと思います。

砂時計をひっくり返せば、過去が未来になる。

これは、若いとは言えない私にとって、力強い言葉です。

いつまでも、恋愛をしていたいですね。

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想い出写真館2

想い出写真館2
長女が5歳、二女が1歳の時の写真です。
場所は、白樺湖だったと思います。
夏休みに蓼科へ旅行した時の一枚です。

今から20年近く前の写真ですが、今でも私にとっては、二人ともちっともかわりません。
わがままで、元気いっぱいで、絵を描くのがじょうずで、もちろん世界一かわいい娘たちです。

余談ですが、この写真の時は、まだ二女の障碍には気づきませんでした。
それだけに、この頃は平和で楽しい日々だったと思います。
障碍が悪い、というのではなく、神が私たち家族に与えた役割りだと思います。

この写真には、長女のやさしさがよくあらわれていると思います。

試練も、運命であり、神のご意思だと思います。

決して豊かではありませんが、娘たちを授かり、幸せに思います。

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地下鉄に乗って

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「地下鉄(メトロ)に乗って」

出演:堤 真一、岡本 綾、大沢たかお、常盤貴子、吉行和子、他。

監督:篠原哲雄

制作プロダクション:ディステニー

2006年 日本映画

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ロードショウ公開を見逃してしまい、DVDで観ることができました。

主人公の長谷部真次(堤真一)と恋人の軽部みち子(岡本綾)は、地下鉄の駅や電車からタイムスリップをして、過去と現在を行き来します。その中で、真次は増悪を抱いていた父親の若い頃に出会い、戦中・戦後を生き抜いた姿を見ることになります。みち子も自分の若き母親と再会し、その愛情を確かめることによって、新たなる次元への決断を迫られることになります。

あまりにもせつなく、あまりにも懐かしい思い出にひたされるドラマです。とても感動しましたが、ラストが悲しい一面があり、正直オススメするには、ちょっと辛い感じがします。

先日のクラス会を含め、最近は過去をふり返ることが多いような気がします。この映画の過去の時代も、最初は東京オリンピック直前の昭和30年代後半です。私はオリンピックのことをよく覚えていて、この映画を観ながら自分もタイムスリップしてしまったような錯覚になってしまいました。

一昨日、研修で都内に出かけた際、地下鉄の銀座線と丸の内線に乗りました。

銀座線は、この映画にも登場しますが、開業は戦前の昭和2年(浅草-上野間)です。私が子どもの頃の車両は、走行中に車内の電灯が一瞬消えて、非常灯が光りました。慣れている人にとっては毎度のことでしたが、地下鉄に乗り慣れていない人はびっくりしたのではないかと思います。

相変わらずの狭くて天井の低い車内。弱いエアコン。走行中の騒音。懐かしくて周りを見渡してしまい、隣に立っていた女性に不審な目で見られてしまいました(笑)。

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夕凪の街 桜の国


映画「夕凪の街 桜の国」の試写会へ行きました。



広島のある

日本のある

この世界を

愛するすべての人へ



こうの史代による原作「夕凪の街桜の国」は、双葉社刊の漫画です。漫画にしては、と言っては失礼ですが、とても心に響く作品です。



今夜観た映画版も、原作に忠実ながらも俳優の持ち味を生かした佳作と言えるでしょう。



広島の原爆投下から生き延びた人々の物語が昭和と平成の時代で描かれています。



心の深い傷、身体に刻まれた傷、そして偏見と差別…



誰もが理不尽さを感じると同時に誰もが避けたくなる事実と出来事に、この映画の登場人物たちは正面から向き合うことになります。



被爆二世として現代に生きる七波(ななみ)を田中麗奈がさわやかに演じています。



東京は7月28日から新宿シネマスクエアとうきゅうでロードショーです。ぜひ多くの方に観ていただきたい作品です。



私も、もう一度観ると思います。

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専門家としての資質

今日は、臨床発達心理士の資格更新研修会「子育て支援」の第二日目に参加しました。

午前中の講義に続いて、午後はグループディスカッションを行ないました。

私が入ったグループでは、肢体不自由児養護学校、ろう学校、児童相談所、児童療育センター、そして保育園とさまざまな職場の方が集まりました。

臨床発達心理士の専門性について話し合いを進めるうちに、ひとつの結論らしきものが見えて来ました。

それは専門家としての人間性、つまり専門家である前に人間である、ということです。

どんなに専門的に知識が豊富で優れていても、人間的に良い面を持ち合わせていなければ、専門家としての仕事はうまくできません。

一人の参加者は、まず職場の中で認めてもらうための努力をしている。例えば常に笑顔を絶やさないようにとか… と大まじめで語りました。

確かに保育士のように、国家資格で社会的にも認知された立場にいると、それにあぐらをかいているような方を時々見掛けます。

しかし、臨床発達心理士は、発達心理の専門家であっても、社会的に広く認められているわけではありません。保育園の職場にいても、発達の研修会で意見を求められることもありません。

だから、自分から子どもと、保護者と、保育士と同じ高さの目線に立ってかかわりを持とうと、私もがんばっています。

同じ課題で、仲間の方々が悪戦苦闘している話を聞いて、とても勇気をいただきました。
明日からの活力にしたいと思います。

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子育て支援

「子育て支援」というテーマで、臨床発達心理士の資格更新研修会に参加しました。

午前中は「子育て支援と少子化問題」がテーマの講義で、講師は恵泉女学園大学の大日向雅美先生でした。

午後は、カウンセリングの理論と実習でした。対立関係にある人の、それぞれの主張の裏にある、心の深いところにある思いに共感するカウンセリング技法は、とても興味深く、納得できる点が多い学習ができました。

実際のカウンセリングは、なかなか理論の通りには進まないものです。しかし、子育て支援の中で、子どもに対して、あるいは親に対して、私たちは経験だけで「指導」しようと半ば強引に引っ張って行こうとしてしまうことがあります。

自分の言動に反省するとともに、今日の学習を来週からの現場で生かしていきたいと思いました。

研修会は、明日も行なわれます。

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日本家族と子どもセラピスト学会

今日は、日本家族と子どもセラピスト学会の第2回大会に参加しました。

欧米並みのセラピストの養成をめざす学会で、昨年設立されました。

私は初めて参加しました。家族と子どもを取り巻く、様々な問題が提起され、とても勉強になりました。

保育・福祉関係である私は、ちょっと場違いな気持ちになりました。

精神分析療法に関するディスカッションでは、専門用語が飛び交い、よくわからないところもありました。

しかし、保育の世界も家族や子どもが相手の世界なので、セラピストとしての役割は必然なことだと思います。

例えば、卒園して小学生になった子どもたちと家族の方々が、学校のこと、生活のことなどで困ってしまった場合、その相談相手になりたいと私は思います。

これからも、しっかりと実践と学習を積み上げて行きたいです。

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「新編 家族の練習問題」

「新編 家族の練習問題

―木陰の物語―」


団 士郎 著

2006年5月10日 初版発行

ゴマブックス株式会社


家族のあり方が社会的な問題になっています。
政府の教育再生会議は、親の子育てについて、「母乳で育てる」「赤ちゃんと目をあわせ子守唄を歌う」「食事の時はテレビを消す」「三世代の同居」などを「親学」というテーマで提言しようとしているようです。
とても当たり前かのようなことをわざわざ政府が国民に向かって言う必要があるのかどうか、家庭に政府が介入し過ぎている、という議論が起こるのも当然でしょう。与党内からも、「再生会議は、教育放談会議になっている」と言われるくらいです。
子どもの問題は家族の問題、これは誰も否定しないでしょう。
そして、家族の問題は社会の問題なのです。社会が子育てしやすい環境でなければ、家族がうまく機能しないのは必然的とも言えます。
まず社会の各種制度の整備が必要であって、親に健全な子育ての姿勢だけを押しつけるのは、反発が起きても不思議ではないでしょう。
「新編 家族の練習問題」の中には、親としての苦悩が、自分が親になって初めてわかる、というトピックスがあり、私は息苦しいほどの共感を覚えました。
自分が自分の親にしてきたこと。自分が親として子どもにしてきたこと。どれも矛盾と後悔と悔しさが入り混じっています。
家族の中で、例えば子どもの非行、父親の単身赴任、夫婦間の亀裂、虐待など、さまざまな問題が起きた時、家族というシステムを再生するのか、それともゆるやかに解体していくのか、千差万別のものであり、万人共通の法則などありません。
それをひとつの思想で括ってしまおう、という無茶なことをするのが時の政権であり、それに対して私たちは声をあげなければなりません。
家族はひとつのものであって、固有なもの、独立した個性をもったコミュニティであることを。

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「いじめ」を考える

「いじめ問題と どう向き合うか」

尾木 直樹 著

岩波ブックレット№695 

2007年3月7日 発行

最近の「いじめ問題」について、わかりやすく解説された本です。

「いじめは加害者が100%悪い、たとえ被害者に問題はあったとしても、個人の人権は尊重されなければならない」という尾木氏の主張が本書の中で貫かれています。

近年の思春期(小学生高学年から高校生あたり)におけるいじめ問題は、被害者が時には加害者になったり、携帯電話の普及によりメールによる攻撃が頻繁に行われるなど、大人からは見えにくい実態があります。

いじめが原因による自殺の事実を隠蔽する文部科学省・教育委員会・学校関係者たちの姿勢は、市民だけでなく、子どもたちからも強い不信と絶望感を抱かせています。文科省大臣宛に子どもたちからの自殺予告の手紙が次々と送られたケースがこれを裏づけています。

組織としての管理体制が強化されつつあり、「教育再生会議」でも教師に対する過大な要求が高くなり、息苦しさが高まりつつある学校社会がいじめの根本的な原因のひとつであり、解決するのはかなり困難と言えるでしょう。例えば、いじめの根絶のために「いじめ件数半減」「不登校ゼロ」などと、すぐに数値的な目標が上から押しつけられているのが現状です。これが教師の人間としての感性とゆとりを奪い、逆にいじめを助長してしまうこともあるのです。

また、親の立場からの「いじめ」の予兆を見つけるための努力が求められます。いじめられている子どもは、必ず何かしらの兆候を示し、自殺も事前にサインが出ていると言われています。それを見逃さないための親の目が求められます。何でも学校の責任にして、糾弾するだけでは何の解決にもなりません。

また、私が保育園の保護者の方々と話していて一番気になることは、「小学校に入ったらいじめられないか心配です」と言う方は圧倒的に多いのですが、「いじめの加害者にならないか心配です」と言う方は皆無ということです。いじめの現実は、ひとり子が被害者にも加害者にもなる可能性が高く、昔のように非行に走る子だけが加害者という時代ではありません。いじめられないために加害者側に加わったり、傍観してしまう子はたくさんいるのです。そのことを私たちはもっと自覚しないといけないでしょう。

尾木氏があげる「いじめをする時期の加害者イメージ」として

  • わがまま
  • 自分がない
  • すぐにむかつく
  • かっこつけたがる
  • リーダー
  • 目立ちたがりや
  • 先生や上級生にうけがよい
  • 言葉が達者
  • 無責任で積極的
  • 明るい

この中で「リーダー」や「先生や上級生にうけがよい」「明るい」などは、一般的に良いイメージであり、いじめの加害者とは無縁のように思われるかもしれません。しかし、私が保育園の子どもたちの関係を見ていても、どの子どもでもいじめる側に加担してしまう可能性は否定できません。

反対にいじめを受けることを防止する方法は、ほとんどないと言っていいでしょう。何が原因でいじめが始まるか、誰にもわからないことなのです。したがって、いじめられる子どもを励ましたり、元気づけることよりも、いじめる子を生み出さない生活環境が絶対的に必要なのです。

いじめはなくすことはできない。これだけは言いたくないところです。

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「Whale Rider」

「Whale Rider」

邦題「クジラの島の少女」

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監督・製作:ニキ・カーロ

製作:ティム・サンダーズ/ジョン・バーネット/フランク・ヒューブナー

原作:ウィティ・イヒマエラ「ザ・ホエール・ライダー」

キャスト

パイケア:ケイシャ・キャッスル=ヒューズ

コロ:ラウィリ・パラテーン

フラワーズ:ヴィッキー・ホートン

ポロランギ:クリフ・カーティス 他

2002年製作・公開

ニュージーランド・ドイツ映画

ニュージーランドに住むマオリ族。彼らはクジラに乗ってやってきた勇者伝説を信じ、男を族長として長年にわたって伝統を引き継いで来ました。望まれない「女」として生まれたパイケアは、その孤独と闘いながらやがて奇跡を起こす少女へと成長して行きます。

一族に伝わる伝説と伝統。それを厳格に守ろうとする祖父。反発して島から去る父親。優しく理解ある祖母。父親を愛しながらも、祖父の元に残り、一族の伝統に自らを投げ入れようとする少女・パイケア。彼女は、伝説の勇者「ホエールライダー」の魂を受け継ぐ者として、クジラを導く不思議な運命に立ち向かい、ニュージーランドの海と大地に奇跡を起こしていきます。

圧倒的な大自然の中で、文明の波に飲み込まれていく先住民族の現状を描きながら、家族の絆とは何か? を問いかけるものでもあります。伝統と家族の狭間で懸命に生きるパイケアがとても愛らしく、優しい少女として描かれています。

ニュージーランド版「風の谷のナウシカ」という評判もあります。しかし、日々日常の生活が淡々と描かれているこの作品は、過大な期待を持たずに、ゆったりとした気分で観るのが良いのではないかと思います。

ラストは明るい未来を予感させる島の人々の姿が描かれ、さわやかな気分にさせてくれます。これも全編で活躍するパイケア―ケイシャ・キャッスル=ヒューズの素朴で可愛らしい演技にもよるでしょう。

感動の一作です。

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子どもへの支援は家族への支援

「LD&ADHD」

特集・「家族への支援」を考える


2006年10月

明治図書
子どもへの支援を考える時、一般的には子ども自身への支援が考えられます。これは障碍がある無しに関係ないでしょう。
しかし、子どもが保育園や学校にいるのは、昼間の時間でしかありません。夜を含む一日の多くの時間は家庭で過ごします。その場合、家庭での生活環境、親の養育のあり方、兄弟関係など、子どもを取り巻く状況にはさまざまなものが関わって来ます。
したがって、子どもの支援を考える場合は、その家族の支援も視野に入れなければなりません。
常識的には、私たち第三者の他人が家庭に入り込んであれこれと指導する、などということはできません。家族との面談などを通して、家族が抱える苦しみや悩みを受け止める必要があります。
特に、障碍がある子どもの場合、家族の苦悩は想像以上のものがあります。それを知ったかぶりして受け答えすることをすると、家族から信頼を得ることはできません。できるだけ家族の立場に立って、気持ちを受け止め、共感することが大切です。
学校や保育園の空間だけで子どもの教育・保育を考える時代は終わりました。子どもを支援することは、家族を支援することです。このことを教師も保育士もはっきりと自覚することが大事ではないでしょうか。

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「障害児の親から健常児の親へ」

「障害児の親から健常児の親へ」

「障害児の親から健常児の親へ

統合保育が当たり前の世の中になることを願って」

石井 利香 編

協力・淵野辺保育園

朱鷺書房

2000年11月

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「子どもの障害をどう受容するか」

「子どもの障害をどう受容するか」

「子どもの障害をどう受容するか

家族支援と援助者の役割」

中田 洋二郎 著

大月書店 子育てと健康シリーズ

2002年8月

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ウエルカム・ホーム!

ウエルカム・ホーム!

「ウエルカム・ホーム!」

鷺沢 萠 作

2004年3月 新潮社

2006年9月 新潮文庫

 鷺沢 萠さんは、私が大好きな作家のひとりです。

 この「ウエルカム・ホーム!」は、本当の家族のあり方というものを考える上で、とても素晴らしい作品だと思います。重く考えがちなテーマを明るいタッチで表現するのは、鷺沢さんの得意な、そして特徴的な文体・分野だと言えるでしょう。いま家族のことで悩んでいたり、考えることが多い方には、絶対におすすめの作品です。

 この作品が単行本として発売されたのが2004年3月。そして同年4月に、鷺沢さんは逝去されました。まったく突然のことで、私は訃報を伝える新聞記事を読んだ時、頭が真っ白になってしまいました。

 今でもその事実を受け入れることができません。他の鷺沢ファンの方々も同じ気持ちではないかと思います。「ちょっと、そこまで…」と、韓国あたりに旅行に行っているような気がします。

 鷺沢 萠さんは、大きな文学賞とは無縁でしたが、私たちにたくさんの愛情を残してくれました。これからも、彼女の作品を読み続けたいと思います。

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母子密着の危険性

 毎日新聞に、親子の接する時間についての記事がありました。少し長いのですが、引用してみます。

 日本の父親が平日に子どもと過ごす平均時間は3.1時間で、タイや米国など6カ国  のうち韓国に次いで低いことが、国立女性教育会館の実施した「家庭教育に関する国際比較調査」で分かった。母親は7.6時間と6カ国中最長で、子どもとの接触時間の父母の差は4.5時間で最大。食事の世話をする父親の割合も10.1%で各国中最も低く、家事や育児が母親に偏りがちな傾向が鮮明に浮かんだ。
 調査は12歳以下の子どもと同居する日本、韓国、タイ、米国、フランス、スウェーデン各国の親約1000人ずつを対象に昨年3~6月に面接して行った。
 日本女性学習財団がほぼ同じ内容について94年に実施した調査(フランスの代わりに英国が対象)では、日本の父親が平日に子どもと過ごす時間は3.3時間で6カ国中最低で、今回さらに0.2時間減った。韓国が今回2.8時間だったため最下位は免れたが、5.9時間と最も長いタイのほぼ半分程度だ。
 94年に比べ、「子どもと接する時間が短い」と悩む父親は27.6%から41.3%に増えており、同会館は「子どもにもっと接したいのにできないという意識の表れ」と受け止めている。
 また、子どもを狙った犯罪の続発や生活苦を反映してか、子育ての悩みや問題点として「子どもの身の安全」を挙げる親が33.8%から46.9%に増加。経済的援助を求める親も31.0%から48.5%に増えた。
 しつけの面では5歳で「行儀よく食事ができる」割合が日本69.3%、韓国70.8%で、9割前後の他の4カ国に及ばなかった。「日常のあいさつができる」割合も日本は83.0%で最も低かった。15歳で「マナーを守ることができる」も9割台の各国に比べ日本は85.8%と最も低く、同会館は「全体的にしつけの達成度や子どもの自立が低い傾向が見られる」と分析している。

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 平日は、母親と子どもだけで過ごしている。父親の帰宅は遅い。母親は育児に不安を抱えており、父親も何とかしたいと思いながらも、仕事が忙しくどうにもならない。休日、父親は子どもと接することに努力をしている。両親とも、育児やしつけに自信がなく、子育てに苦労している…

 この記事から推測される親子像というのは、このようになるのではないかと思います。

 現実には、この姿から「育児不安」「虐待」という問題が浮かび上がってきます。「虐待」は、すでに特殊な状況ではなく、一般のどの家庭にも起こりうる問題として考えることができます。「虐待」と言うから、他人事のようにとらえがちですが、現代では身近な現象と言えます。

 例えば身体的な虐待―叩いたり、ケガをさせたりなど、報道されるようなものだけが虐待ではありません。満足な食事を与えなかったり、子どもの意志や欲求を無視したりする場合も虐待になります。

 さらに虐待の原因は、子どもの側、大人の側など、それぞれの事情があったりしますが、多くの場合が親子関係の問題になってきます。母子密着が、愛情も、憎しみも呼び寄せる可能性があることを知るべきでしょう。

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子どもの命は誰のものか?

 新聞報道によれば、大阪市にある淀川キリスト教病院で、治る見込みがない重い病気で死期が迫った赤ちゃんについて「あと一、二時間以内」と判断した時点で、両親の希望を受け、すべての延命治療を中止していました。その数は、昨年までの七年間で八人。親が赤ちゃんを抱っこして安らかな最期を迎えられるようにするためで、同病院では「看取(みと)りの医療」と考えています。

 これまであまり注目されることがない、新生児の終末期医療の在り方を問いかけるものとして、この問題は十分に考える必要があると思います。

 新生児の重い病気としては、無脳症などの致死的奇形や脳室内出血などがあるそうです。

 胎児期・新生児期の赤ちゃんは、本人の意思を確認することができません。したがって、その生死も含めて、医療の選択の決断を下すのは両親です。

 しかし、すべての決断を両親にゆだねるのは問題があるかもしれません。両親の意向は、時には自身の都合の良い解釈になってしまうこともあります。また、倫理という問題もあります。

 例えば、命を救うことができても、重い障碍が残ってしまう場合は、どうするのでしょうか。生まれてくる子が、これから育つ子どもが障碍がある、という問題は、両親に十字架を背負わせること、と考えることもできます。

 どの選択が正しいのかは、まったくわかりません。

 しかし、この病院のように、小さな子どもがベットに固定され、チューブや管を差し込まれたまま終末の時を迎えるよりは、家族の手によって抱かれ、包まれるようにして最期を迎えることを選択できることは、赤ちゃんにとっても、家族にとっても幸せなのではないかと思います。

 診断があいまいだったり、治療が間違っていた、などというのは論外です。また、助かる命を親の都合で消してしまうことも許されることではありません。

 しかし、真実の苦しみは当事者にしかわからないことなのです。

 同病院では、治療方針が看護師やソーシャルワーカーも含む医療チームで論議し、両親とも話し合いで決定しているそうです。今後も、十分に論議を重ねて、本当に命を大切にする医療が行なわれてほしいと思います。

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再会

 夕涼み会を始め、保育園のさまざまな行事には、卒園した小学一年生も招待されます。わずか数ヶ月ぶりの再会ですが、ひとりひとりの成長には驚くものがあります。

 しかし、私の勤務する保育園では、招待するのは一年生までです。在園児に弟妹がいれば、もっと大きくなっても保育園に来ることはありますが、ほとんどの子は一年生までて、その後は縁が切れてしまいます。

 私が以前に勤務していた東京・多摩市の幼稚園では、小学六年生までの同窓会がありました。

 私は、もっと中学生になっても、高校生になっても、参加者が一ケタになっても、保育園での集いを開くべきではないかと思います。保育園が主催者になり、保護者の方々にも企画に参加していただいて、同窓会を開くことには意味があると思います。

 人生には、いろいろなことがあります。子どもが保育園、小学校、中学校、高校と成長する過程において、それぞれの家庭の中でも、さまざまな出来事があります。時には、家族の解体、ということも今の時代ではめずらしくありません。その時、力になってくれるのは「昔の仲間」ではないでしょうか。

 家族が年月を重ね、大小の山を越え、谷を渡りながら成長していく姿を保育園というフィールドが支えていくことが、これからの保育園としてのあり方なのではないかと思います。

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ピエタ

「ピエタ」(ⅠⅡ)

榛野 なな恵 作

ヤングユーコミックス 集英社 2000年

ピエタ

 「ピエタ」とは、イタリア語で「敬虔な心」「慈悲心」という意味です。聖母マリアがキリストの死体を膝に抱いて嘆いている姿を表す絵画、または彫刻を「ピエタ」とも言います(広辞苑より抜粋)。

 不登校、虐待、いじめ、リストカット、自殺… このマンガには現代社会の子どもたちが直面するキーワードがいくつも出てきます。家族という最小社会の中で生きることができない二人の少女が出会い、そしてさまざまな試練の後に、共生の道を歩み始める、という話です。

 けっして問題児ではなく、むしろ優等生に近い少女たちが、本来安らぎの空間であるはずの家族の中では生きる場所を見つけられなかった、ということはマンガの世界だけではなく、現実にもある事象ではないでしょうか。

 子どもを拒否する親、友情に危うさを感じる少女、ごく普通に存在することに、この社会への不安を感じます。そして、少女を救おうとするカウンセラーの力の限界。心理学が、まだまだいかに無力なのかをこのマンガは示唆しています。

 そして、少女たちの生きる力に最後の望みがたくされ、ストーリーは終わります。決して未来が明るいわけではなく、確固たる幸せが約束されたわけでもありません。しかし、少女たちの若い生命力がすべての壁を乗り越えていく可能性と希望をこのマンガは描いています。

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孤独死

 7日付東京新聞によれば、東京都内の都営住宅と都市再生機構の賃貸住宅の一人暮らし世帯で、2004年度中に計410人が誰にもみとられずに「孤独死」していたことが明らかになりました。一日に約1.12人が死亡している計算になります。八割近くは65歳以上の高齢者です。

 孤独死は、法的にも社会通念上も明確な定義はありません。一般的には一人暮らしで誰にもみとられずに自宅で亡くなった場合を孤独死と言います。多くの場合、低所得で福祉サービスも十分に受けられず、ここにも、死の瞬間まで「格差社会」が出来上がってしまっています。

 阪神淡路大震災の際に仮設住宅で独居者の孤独死が相次ぎ、問題となりました。しかし、それだけではなく、都会の団地で暮らす高齢の単身者が孤独のまま死を迎える実態が明らかになりました。

 私も都営団地に住んでいますが、周囲は確実に高齢化しています。高齢でも夫婦で暮らしている人は、まだ孤独ではないので良いほうでしょう。しかし、どちらかが先に亡くなると単身世帯になってしまいます。昨今は子どもと同居することも、高所得で広い家なら別でしょうが、敬遠される風潮にあります。

 孤独はある意味、私は必要なことだとは思います。しかし、その孤独がいつもずっと続くのはさびしいことです。私の団地の近くには高齢者のための集会施設がありますが、地域で集うことによって、孤独を防ぐための施策が必要ではないかと思います。

 特に、知り合いや友だちが多い女性に比べて、男性の孤独は深刻です。すでに中年期から、仕事関係以外の友人を持たない男性は非常に多いのではないかと思います。地域のコミュニティも女性は積極的ですが、男性は尻込みしやすい傾向にあります。そこをどうするのか。単に福祉サービスの充実だけでは解決できない問題だと思います。

 これは、少子化対策を始めとして、どこにうまく公的資金を投入するか、議論する必要があると考えます。

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木陰の物語―うっとうしい―

   なぜ子どもは自分の親をあんな風に、

   うっとうしく思ってしまうのだろう。

   管理者としてうるさいだけではない。

   あふれるような愛情もまた、息苦しいのだ。

   「親になってはじめて分かる親の恩」

   という使い古された言葉がある。

   誰もが経験したことだから

   慣用句になっているのだろう。

   しかし、そういう息長い心情を

   私たちの時代は確かに引き継いだだろうか?

   いまも持ち続けているだろうか?

   子どもたちの起こす

   いろいろな事件のニュースを見ながら、

   親子関係のことを思うと確信が持てない。

******

 子どもは、時として親の存在がうっとうしくなります。親の心配を余計なお世話と考えます。でも、いつの時代でも、親は子どものことを案じ、子どもは親を遠ざけようとします。

 何のためらいもなく、子どもを抱きしめられるのは、小学生の前までかもしれません。だから、私は映画「魔女の宅急便」で、お父さんが旅に出る娘のキキを抱き上げるシーンが、とてもうらやましく思います。現実の世界では、子どもはさっさと親の手から離れていきます。

 子どもは親から巣立つことで、人間として成長するのでしょうか。親のことを「うざったく」思うことは、普通のことなのでしょうか。

 親は、子どもが生まれた時から、どんなに愛しても、これでもう満足ということはありません。いつまでも子どものことを愛し、心配します。

 そうして、親と子の関係は、いつまでも続くのでしょう。

 親の心子知らず…

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続・木陰の物語

 「家族の練習問題 ―木陰の物語―」から、もうひとつエピソードを紹介します。

 著者の息子さんが新しい自転車を欲しがりました。小さくなった子ども用はありましたが、大人用に乗るにはまだ背丈が足りません。同僚から中古の自転車をもらいましたが、他の子どもたちは変速機のついたサイクリング用自転車に乗っていました。息子さんは中古のには乗りたがりません。結局、中古が乗れなくなったら新しいのを買うことにしました。

   物を買い与えるより、与えないことが

   難しい時代になった。

   手に入らないことを通じて

   学ぶ貴重なことがあるのを

   発見する機会が手に入らない、

   という奇妙な時代になった。

   喜びも悲しみも、満足も不満も、

   みな子どもを育てる。

   そのどれもに溢れた生活こそが

   人の心を鍛えるのだと思う。

 物が溢れている、と言われるようになって何十年が過ぎたことでしょうか。

 いま、子どもたちのブームと言えば、「たまごっち」の再来。ひとりで二個も三個も持っているケースもめずらしくありません。

 ガマンすることを忘れた大人たち。

 ガマンすることを学ばない子どもたち。学ぶ機会を与えない大人たち…

 子どものためにと、なりふり構わない大人が物を買い与えていく構図は、批判するどころか、日常の当たり前の姿になりつつあります。

 大量生産、過剰広告、大量消費、大量なゴミ…

 私たちは子どもの未来を奪っているのかもしれません。

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16の木陰の物語

 昨日、このブログで紹介した「家族の練習問題 ―木陰の物語―」には、全部で16のエピソードが掲載されています。16話のどれひとつをとっても、家族・親・兄弟・子ども・障碍者・障碍児・地域・時代… と大切で大事なメッセージが込められています。

 私たちは、どのようにして、いま実存する家族と暮らすようになったのでしょうか。

 そして、これから自分の居場所である家族はどのようになっていくのでしょうか。

 この本を読んでいると、自分自身のことに重ね合わせて、いろいろと考えてしまいます。

 本書の中の、ひとつのエピソードを紹介しましょう。

 子どもがサッカーや野球など、スポーツをやることに夢中になることがあります。しかし、西武の松坂やメジャーのイチローのように大成する人は一握りに過ぎません。大半の子どもは、いつかどこかで努力だけでは突き破れない限界にぶつかります。

 挫折したその時、子どもを見守ってあげられるのは親だけなのです。挫折したことも含めて、子どもを受け入れるのは親なのです。

    多分それが親の仕事なのだろう

    そして、そこから始まる人生に、

    また夢や希望を持つ力を

    育てておいてやるのも

    親の仕事だろう。

 子どもが何らかの事で、自らの限界を悟るのは、早くて小学校の高学年、多くは思春期の頃ではないかと思います。その時、親が子どもを裏で支えてやらなければならない、という当たり前のことを痛いほど教えられました。

 子育て、親育ちには、長い道のりがあり、終わりはないことを悟り、ある種の喜びすら感じました。

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家族の練習問題

「家族の練習問題 ―木陰の物語―」

 団 士郎 著

 ホンブロック 2006年

 家族というコミュニティー、いったいなんだろうと最近よく思うことがあります。

 私たちひとりひとりには、異なった家族が存在することがあります。まず、自分が生まれ育った家族。親や兄弟と暮らした日々の記憶は一生忘れることがありません。

 もし、親が死別や離婚などの後、再婚した場合、新たな家族構成ができあがります。ステップ・ファミリーなどと言ったりします。

 そして、自分自身が結婚すると、そこに新しい家族が誕生します。子どもが生まれれば、さらに家族構成は増えていくことになります。

 私たちはいくつもの「家族」の中にいます。そのうちのひとつかふたつは、すでに解体・消滅している場合もあります。しかし、実存しなくても、私たちの記憶の中に「家族」は生き続けているのです。

 本書は、心理実践を長く務められた団 士郎氏の著書です。団氏は日本漫画家協会の会員でもあり、この「木陰の物語」はマンガと文による短編ストーリーです。

 家族が生み出すさまざまな問題を取り上げいますが、そこには「家族の理想像」というものがあるのであれば、それは幻想に過ぎないことを語っているように思います。

 今年、最初に読んだ本で、今のところ、いちばん心に残った本です。

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いもうとのにゅういん

生きているあかし、いのちの大切さを知る

「いもうとのにゅういん」

筒井 頼子 作

林 明子 絵

福音館書店 1983年

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幼稚園に通うあさえの妹、あやちゃんが盲腸炎で急に入院してしまうことになりました。ひとりで留守番するあさえは心配とさびしさが心からあふれそうになってしまいます。平和で楽しい家庭が、一転して重い雰囲気に包まれます。お母さんは病院に行ったきり。やっと帰ってきたお父さんと二人だけの夕食。あやちゃんのためにおり紙を折ったり、手紙を書いたり。そしてあやちゃんの入院する病院へお見舞いに行く…

あさえの不安な心理がページをめくるたびに描かれています。家族の入院は、それだけ大きな「おもし」になります。しかも、病気というものの前に、お父さんもお母さんも無力をさらけだしてしまいます。

家族の入院というような「突然の危機」の訪れによって、家族の絆が強まることもありますし、逆に崩壊へ向かうこともあるかもしれません。この絵本では、突然変化した生活の波を乗り越えたあさえが、一歩成長するようすが描かれています。

生活経験の浅い子どもたちにとって、「入院」というのは非常に特別な事件です。私がこの絵本を読んでいるときも、子どもたちはシーンと静まりかえり、かたずをのんで見ていました。

もうひとつ、子どもの生活から遠ざかっているものに「死」があります。年老いたおじいちゃんが亡くなり、その臨終から葬式、火葬までを描いた絵本というものはどうでしょうか?

少子高齢化社会において、「人の死」を仮想体験することは、非常に大切なことだと思うのですが…

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きょうはなんのひ?

理想の家族とは?… 家族の理想とは?…

「きょうはなんのひ?」

瀬田貞ニ 作

林 明子 絵

福音館書店 1979年

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理想の家族とはなんでしょう? 家族の理想ってどんなことでしょう?

私はこの絵本を初めてみた時に、登場するまみこやお父さん、お母さんが理想の家族像のように映りました。まだ独身だったので、将来こんな家族を創りたいと思いました。

しかし、二十数年が過ぎ去って、いまあらためて振り返ってみると、理想の家族とはなんなのか、家族が求める理想ってなんなのか、深く考えさせられます。結論から言うと、理想はあくまでも理想であって、現実には非常に難しいことだと思います。それは、私自身の家族が、このまみこの家族とは、かなりかけ離れた状況にあり、私自身が家族というものに期待しなくなったからかもしれません。

「他人の家の庭は良くみえる」と言います。友人・知人の家族は、みなとても幸せで、理想的な羨ましく映ります。自分の家を建て、自家用車を乗り回し、ペットを飼い、海外旅行にも行き、子どもは一流校へ通う… 「きょうはなんのひ?」のまみこの家族も幸せに満ちあふれた話です。

まみこが家の中のあちこちに隠したなぞのメッセージが書かれた手紙をひとつずつ、お母さんが探し出します。その手紙をつなげると、お父さん、お母さんの結婚記念日をお祝いするメッセージになります。まみこはお父さん、お母さんを祝福し、お父さんはまみこのために子犬をつれてきます。

この絵本は、読んであげると子どもたちも大好きになります。また、保育士にも広く愛され続けています。そこには、誰でも「こんな家族であってほしい」という理想が見えるのでしょう。平凡で日常の一コマに過ぎない話ですが、愛情に包まれた、ほほえましい話です。

それだけに、人生の裏表を積み重ねて来た(?)、ひねくれ者の私にとっては、まみこの家族があまりにも理想的すぎて、返って現実感を失ってしまいます。それは、「家族」というシステムが現代社会において、果たして有効に機能しているかどうか、疑わしく思ってしまうからかもしれません。核家族、少子化によるさまざまな歪み、虐待、離婚、ステップファミリー… 良いも悪いも、家族の姿はここ十数年でかなり変わってきたと思います。理想と幻想は表裏一体なのかもしれません。

結局、家族の理想は絵本の世界にあってこそ、理想なのではないかと思います。親による子どもへの虐待が絵本として表現できるはずがないでしょう(ちょっと極端になり過ぎてしまいましたね)。

幸せをねたむのではなく、幸せの意味をこれからも追い続けたいと思います。今日、この絵本を子どもたちに読んで聴かせながら、そう思いました。