2011年5月 7日 (土)

和久洋三先生の積木の魅力

―積木で大きな物を創るって、すごいですね。

そうなんです。過去、積木というのは、箱に入った十数個の木製立体というイメージでした。

―お誕生祝いなどにも贈られていましたね。

はい。それでも、レゴブロックのように、比較的安価で、色が着いていて、バリエーションが豊富なものがおもちゃ市場で圧倒的になってしまいます。

―デパートのおもちゃ売り場などでは、白木の積木は隅に追いやられていますね。

一般的な積木は統一性と互換性が無いのです。

―トウイツセイ? ゴカンセイ?

下の写真を見てください。

0009

―いろいろな積木やブロックやビーズみたいなものが組み合わせてありますね。

和久先生が創った積木は、一辺が45mmの立方体が基準になっています。直方体は、45mm、90mm、22.5mmです。

ですから、どのように組み合わせても…

―ぴったり組み合わせることができるのですね。

そうです。とてもわかりやすい原則ですね。

他の積木は基準が無いので、いろいろなものを作りにくいのです。

積木はブロックと違って、バランスがうまく取れないとすぐに壊れてしまいます。ですから、大きさにおいて統一性があると、うまく創りやすいのです。

―でも、どうして45mmなのですか?

それは、次回にお話しましょう。

―ずる~い!

(なんか、雰囲気変わってきた…?)

0007

童具館(外部サイト)

2011年5月 6日 (金)

和久先生と子どもの日イベント2

―なかなかおもしろそうですね。

そうでしょう! 積木に集中する子どもの姿は圧巻です。

―でも、積木は小学生の子どもには物足りない気もしますね。

そんなことありせんよ。下の写真は、午前中の小学生クラスの子どもたちです。クムンダという童具を使っていますね。

0006

―クムンダ? それと道具?

道具ではなく、童具です。和久先生は自ら創作されたおもちゃを「童具」と名づけています。

それから、クムンダは車輪がついた積木をレールのような積木を組み合わせて走らせるものです。

―小学生になると、かなりダイナミックな構成になって来ますね。

より高く、より大きいものを創りたい、という欲求が出て来ますからね。幼児にも同じ欲求はありますが、手先の器用さや背の高さなど、限界があります。

また、積木はブロックと違ってバランスが悪いと崩れてしまいます。これが子ども自身が学ぶことであり、難しい課題でもあるのです。でも、子どもはそれに挑戦します。それがこのような形となって表現されるのです。

―指導もないから、小学生でも夢中になれるのですね。

そうです。教え込まず、自分で考えるのです。

下の写真は、午後の小学生クラスです。ほとんど同じメンバーですが、創るものに違いがあるのがわかりますか?

0010

―ああ、すごい! ぜんぜん違うものを創っていますね。

午前中よりも、さらに集中して創っていることがわかります。

0011

―何だか、私もやってみたくなって来ました。恥ずかしい…

そんなことありませんよ。和久先生の積木は、大人が遊んでも夢中になります。

―私のこと、大人だと認めてくれるのですか?

…………(話題が違うと思うのですが…)

和久洋三先生の「童具館」(外部サイト)

2011年5月 5日 (木)

和久洋三先生とこどもの日イベント

―今日はこどもの日だというのに、お孫さんをほっぽらかして、どこへ行っていたのですか?

川崎駅前のミューザ川崎で開かれた、和久洋三先生のイベントに行って来ました。

0008

―どんなイベントでしたか? 昼間から飲み会?

いくら私と和久先生との仲とは言え、朝から飲んだりしませんよ。

まず午前中は和久先生の講演会でした。

0001

創造共育について、再度認識を深める場となりました。

―「創造共育」って、何か特別なメソッドなのですか?

和久先生が提唱されているのは、積木とか、絵画・造形などの活動ですが、何も特別なことではありません。もちろん、和久先生が開発した積木は「調和と秩序」が保たれたものですが、何も、特殊な教具とか、そういうものではありません。

もちろん、並みの人では創れませんが…

0004

―では、実際にはどのようなことをするのですか?

上の写真は、講演会と並行して行われた、幼児クラスの積木遊びですね。原則して、子どもには「こう作るんだよ」とか「このようにしなさい」などという指示は一切与えません。うまくできない子にはヒントを与えることもありますが、何か到達目標があるわけではありません。

子どもが自分で考え、自分で創り出すことが「創造共育」なのです。

(つづく)

和久洋三先生の「童具館」(外部サイト)

2009年9月22日 (火)

CBCを立ち上げます!!

このたび、CBCという組織を立ち上げました。

CBCは、Child and family Base Camp の略です。

インターネットのツールを最大限利用して、子育て支援、親・家族支援、そして保育士や専門家の支援を行っていきたいと考えています。

詳しくは、「こころのもり」をご覧ください。

http://homepage3.nifty.com/kokoronomori/

また、ブログ「えほんかいじゅうのうちゅう 100万光年の心の旅」では、CBCに対する私の決意や思いを記事にしています。こちらもご覧いただければ幸いです。

http://kokoronomori100.blog105.fc2.com/

多くの方々に参加していただきたいと思います。

どうぞよろしくお願いいたします。

2008年4月12日 (土)

障碍は個性なのか

前職である、せいがの森保育園のホームページから、統括園長の主宰する組織のHPへ行き、さらに支援企業の「カグヤ」のHPを見ていました。

その中で、八王子市南大沢にある、特定非営利法人CEセンターの野田弘一氏が紹介されていました。野田氏は巡回相談、スーパーバイザー、障碍児の指導など幅広い活動を展開しています。せいがの森保育園においても心理相談員として、保護者・職員の力強い味方になっています。

その野田氏のコメント。

「障碍は個性です」

専門家と呼ばれる方から、よく聴かれる言葉です。

つまり、障碍を特別なもの、劣ったもの、差別するもの、排除するもの、などと捉えるのではなく、その子どもの個性として考えることによって、バリアフリーな社会を築こう、という思想があるのではないかと思います。

そのような考え方に私は異論ありません。

また、個性という意味を考える上で、次のような言い方もできます。

自転車に乗れないのは、もしかしたらその人の運動調節機能に障碍があるのかもしれません。しかし、自転車に乗れない人のことを「障碍者」とは呼びません。

つまり、読み書きや、社会性など、生きていく上でハンディキャップがたまたま障碍になってしまっただけであって、障碍はその人が持つ個性なのです。

しかし、障碍者の父親として、この「障碍は個性」という言葉には、正直引っかかるものがあります。

障碍児・者が世の中で生きていくのは、大変な障壁を数限りなく乗り越えていかなければなりません。これは重いとか軽いとか、障碍の程度によって変わることはありません。かつて「軽度発達障碍」と言われた学習障碍の子どもも、学校で地獄のような苦労をして来たのです。

そのひとりひとりの生きざま、苦渋、人と同じようにできないくやしさ、自分に対する情けなさ、やり場のない怒り、誰にも向けられない憎しみ。これらを生まれた瞬間から背負い続けているのです。

それらを「個性です」のひと言で片づけられるのでしょうか。

障碍児・者の立場に立てば、あるいは親の気持ちに寄り添ってみれば、きれいごとですまされるものではありません。

しかし、専門家の立場に立てば、きれいごとを言わざるを得ない現実があります。野田先生のように、ひとりで何百人のケースを持っていると、ひとりの子ども・家庭に深くかかわる余裕がありません。どこかで線を引いて、どこかで冷めた視点を持たないと、ビジネスとしては成り立たないのです。

私は、臨床発達心理士になった時から、障碍のあるなしにかかわらず、SOSを発信する子ども、親、家族には、最大限寄り添い、支援したいと考えて来ました。それは、どのようにクライアントを受容するか、ということでもあります。

きれいごとはやめましょう。

生身の人を私は受け入れていきたいと思います。

2007年1月 9日 (火)

軽度発達障碍とは…

軽度発達障碍とは…

「現代のエスプリ 474

スペクトラムとしての軽度発達障害Ⅰ」

編集 石川 元

2006年12月

至文堂

近年、「軽度発達障害」という言葉がよく聞かれます。専門家によってその定義はさまざまですが、大枠で捉えると、「知的な遅れを伴わない」「広汎性発達障碍(自閉症、アスペルガー障碍など)」「学習障碍(LD)」「注意力欠陥多動症候群(ADHD)」などの障碍を言うようです。

そこで私は前々から疑問に思っていたことがあります。

「軽度発達障害」が「知的な遅れを伴わない」のであれば、以前に「軽度の発達障碍」と言われた、軽度の知的障碍、あるいは境界域にいる子どもたちは何と表現すればいいのでしょうか。

学校教育で行われる「特別支援教育」が、軽度発達障害の子どもたちを対象とするのであれば、一般学級にも、障碍児学級にも存在する「軽度の知的障碍」の子どもたちは、支援の対象からはずれることになります。

「軽度の知的障碍」と言っても、さまざまな状態・ケースがあり、「単に知能が遅れている状態」と括ることはできません。軽度発達障害と診断される子どもたちの中にも、知的に遅れている子どもは存在します。

つまり、子どもを能力や発達で線引きすることはできないのです。これは当たり前のことですが、非常に重要なことです。

ここで、「スベクトラム」という概念が重視されます。「スベクトラム」とは連続性を意味します。障碍の程度は、すべてスベクトラムであり、一般学級に在籍する子どもたちにつながっているのです。

現在、最も一般的に使われるのは「自閉症スベクトラム」という考え方です。重い自閉症の人から、程度の差はあれどの人も持ち合わせる「日常生活の中でのこだわり」まで、自閉症という症状はスベクトラムと言えるのです。

同じように、障碍と呼ばれる症状は、知的能力も含めてスベクトラムなのではないかと思います。

2006年11月22日 (水)

「保育を支える発達心理学」

「保育を支える発達心理学」

「保育を支える発達心理学

関係発達保育論入門」

鯨岡 峻/鯨岡 和子 著

ミネルヴァ書房

2001年3月

2006年11月19日 (日)

「発達障害の心理臨床」

「発達障害の心理臨床」

「発達障害の心理臨床

子どもと家族を支える

療育支援と心理臨床的援助」

田中 千穂子・栗原 はるみ・市川 奈緒子 編

有斐閣アルマ

2005年9月

2006年5月23日 (火)

健全な肉体とは? 健全なる精神とは?

 先日、プロ野球・阪神タイガースの金本選手が全イニング連続試合出場の新記録を達成しました。その試合のインタビューで(細かくは覚えていませんが)「健全な身体に生んでくれた両親に感謝します」と言っていました。

 私は金本選手は好きですし、何らケチをつけるつもりはありません。しかし、プロスポーツの選手には、よく両親に感謝する言葉として「丈夫な身体に生んでくれて…」ということを言います。

 では、もし丈夫でない身体だったとしても、それも両親の責任なのでしょうか?

 私は、天性の才能と努力を否定する訳ではありません。しかし、このような何気ない、悪意のない、他意のない言葉の中の潜む、人を傷つける針を感じてしまいます。

 身体や精神に障碍がある子どもの親は、いつも、どんな時でも自責の念にかられています。障碍を持って生まれたのは、私たち親の責任ではないだろうかと… ですから、子どもには常に心の中で謝り続けます。たとえ障碍がなくても、親のことを責める子どもは大勢います。親子関係が複雑に崩壊しつつある現代において、「丈夫な身体に生んでくれて…」というメッセージは、ある意味虚しさを感じます。

 障碍については、本当のところはわからないのです。本当に親が悪いかどうかは、誰にも判断できません。しかし、例えば「健全な精神は健全な肉体に宿る」というスポーツ精神も、私は強い疑いを持ちます。

 それでは、身体に障碍がある人には正しい精神がないのでしょうか? 精神に障碍がある人の肉体は欠陥なのでしょうか?

 何気ない言葉が、人を傷つけることがあります。そのことを少なくてもマスコミで発言する人は考えるべきだと思います。

 そして、たとえ身体に障碍があっても、精神に障碍があっても、両方に障碍があっても、それを補いながら必死に生きている人が社会にはたくさんいるのです。そのことを少しでも、考えてみましょう。

2006年4月12日 (水)

木陰の物語―うっとうしい―

   なぜ子どもは自分の親をあんな風に、

   うっとうしく思ってしまうのだろう。

   管理者としてうるさいだけではない。

   あふれるような愛情もまた、息苦しいのだ。

   「親になってはじめて分かる親の恩」

   という使い古された言葉がある。

   誰もが経験したことだから

   慣用句になっているのだろう。

   しかし、そういう息長い心情を

   私たちの時代は確かに引き継いだだろうか?

   いまも持ち続けているだろうか?

   子どもたちの起こす

   いろいろな事件のニュースを見ながら、

   親子関係のことを思うと確信が持てない。

******

 子どもは、時として親の存在がうっとうしくなります。親の心配を余計なお世話と考えます。でも、いつの時代でも、親は子どものことを案じ、子どもは親を遠ざけようとします。

 何のためらいもなく、子どもを抱きしめられるのは、小学生の前までかもしれません。だから、私は映画「魔女の宅急便」で、お父さんが旅に出る娘のキキを抱き上げるシーンが、とてもうらやましく思います。現実の世界では、子どもはさっさと親の手から離れていきます。

 子どもは親から巣立つことで、人間として成長するのでしょうか。親のことを「うざったく」思うことは、普通のことなのでしょうか。

 親は、子どもが生まれた時から、どんなに愛しても、これでもう満足ということはありません。いつまでも子どものことを愛し、心配します。

 そうして、親と子の関係は、いつまでも続くのでしょう。

 親の心子知らず…

より以前の記事一覧

フォト
無料ブログはココログ

最近のトラックバック