障碍は個性なのか

前職である、せいがの森保育園のホームページから、統括園長の主宰する組織のHPへ行き、さらに支援企業の「カグヤ」のHPを見ていました。

その中で、八王子市南大沢にある、特定非営利法人CEセンターの野田弘一氏が紹介されていました。野田氏は巡回相談、スーパーバイザー、障碍児の指導など幅広い活動を展開しています。せいがの森保育園においても心理相談員として、保護者・職員の力強い味方になっています。

その野田氏のコメント。

「障碍は個性です」

専門家と呼ばれる方から、よく聴かれる言葉です。

つまり、障碍を特別なもの、劣ったもの、差別するもの、排除するもの、などと捉えるのではなく、その子どもの個性として考えることによって、バリアフリーな社会を築こう、という思想があるのではないかと思います。

そのような考え方に私は異論ありません。

また、個性という意味を考える上で、次のような言い方もできます。

自転車に乗れないのは、もしかしたらその人の運動調節機能に障碍があるのかもしれません。しかし、自転車に乗れない人のことを「障碍者」とは呼びません。

つまり、読み書きや、社会性など、生きていく上でハンディキャップがたまたま障碍になってしまっただけであって、障碍はその人が持つ個性なのです。

しかし、障碍者の父親として、この「障碍は個性」という言葉には、正直引っかかるものがあります。

障碍児・者が世の中で生きていくのは、大変な障壁を数限りなく乗り越えていかなければなりません。これは重いとか軽いとか、障碍の程度によって変わることはありません。かつて「軽度発達障碍」と言われた学習障碍の子どもも、学校で地獄のような苦労をして来たのです。

そのひとりひとりの生きざま、苦渋、人と同じようにできないくやしさ、自分に対する情けなさ、やり場のない怒り、誰にも向けられない憎しみ。これらを生まれた瞬間から背負い続けているのです。

それらを「個性です」のひと言で片づけられるのでしょうか。

障碍児・者の立場に立てば、あるいは親の気持ちに寄り添ってみれば、きれいごとですまされるものではありません。

しかし、専門家の立場に立てば、きれいごとを言わざるを得ない現実があります。野田先生のように、ひとりで何百人のケースを持っていると、ひとりの子ども・家庭に深くかかわる余裕がありません。どこかで線を引いて、どこかで冷めた視点を持たないと、ビジネスとしては成り立たないのです。

私は、臨床発達心理士になった時から、障碍のあるなしにかかわらず、SOSを発信する子ども、親、家族には、最大限寄り添い、支援したいと考えて来ました。それは、どのようにクライアントを受容するか、ということでもあります。

きれいごとはやめましょう。

生身の人を私は受け入れていきたいと思います。

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軽度発達障碍とは…

軽度発達障碍とは…

「現代のエスプリ 474

スペクトラムとしての軽度発達障害Ⅰ」

編集 石川 元

2006年12月

至文堂

近年、「軽度発達障害」という言葉がよく聞かれます。専門家によってその定義はさまざまですが、大枠で捉えると、「知的な遅れを伴わない」「広汎性発達障碍(自閉症、アスペルガー障碍など)」「学習障碍(LD)」「注意力欠陥多動症候群(ADHD)」などの障碍を言うようです。

そこで私は前々から疑問に思っていたことがあります。

「軽度発達障害」が「知的な遅れを伴わない」のであれば、以前に「軽度の発達障碍」と言われた、軽度の知的障碍、あるいは境界域にいる子どもたちは何と表現すればいいのでしょうか。

学校教育で行われる「特別支援教育」が、軽度発達障害の子どもたちを対象とするのであれば、一般学級にも、障碍児学級にも存在する「軽度の知的障碍」の子どもたちは、支援の対象からはずれることになります。

「軽度の知的障碍」と言っても、さまざまな状態・ケースがあり、「単に知能が遅れている状態」と括ることはできません。軽度発達障害と診断される子どもたちの中にも、知的に遅れている子どもは存在します。

つまり、子どもを能力や発達で線引きすることはできないのです。これは当たり前のことですが、非常に重要なことです。

ここで、「スベクトラム」という概念が重視されます。「スベクトラム」とは連続性を意味します。障碍の程度は、すべてスベクトラムであり、一般学級に在籍する子どもたちにつながっているのです。

現在、最も一般的に使われるのは「自閉症スベクトラム」という考え方です。重い自閉症の人から、程度の差はあれどの人も持ち合わせる「日常生活の中でのこだわり」まで、自閉症という症状はスベクトラムと言えるのです。

同じように、障碍と呼ばれる症状は、知的能力も含めてスベクトラムなのではないかと思います。

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「保育を支える発達心理学」

「保育を支える発達心理学」

「保育を支える発達心理学

関係発達保育論入門」

鯨岡 峻/鯨岡 和子 著

ミネルヴァ書房

2001年3月

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「発達障害の心理臨床」

「発達障害の心理臨床」

「発達障害の心理臨床

子どもと家族を支える

療育支援と心理臨床的援助」

田中 千穂子・栗原 はるみ・市川 奈緒子 編

有斐閣アルマ

2005年9月

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健全な肉体とは? 健全なる精神とは?

 先日、プロ野球・阪神タイガースの金本選手が全イニング連続試合出場の新記録を達成しました。その試合のインタビューで(細かくは覚えていませんが)「健全な身体に生んでくれた両親に感謝します」と言っていました。

 私は金本選手は好きですし、何らケチをつけるつもりはありません。しかし、プロスポーツの選手には、よく両親に感謝する言葉として「丈夫な身体に生んでくれて…」ということを言います。

 では、もし丈夫でない身体だったとしても、それも両親の責任なのでしょうか?

 私は、天性の才能と努力を否定する訳ではありません。しかし、このような何気ない、悪意のない、他意のない言葉の中の潜む、人を傷つける針を感じてしまいます。

 身体や精神に障碍がある子どもの親は、いつも、どんな時でも自責の念にかられています。障碍を持って生まれたのは、私たち親の責任ではないだろうかと… ですから、子どもには常に心の中で謝り続けます。たとえ障碍がなくても、親のことを責める子どもは大勢います。親子関係が複雑に崩壊しつつある現代において、「丈夫な身体に生んでくれて…」というメッセージは、ある意味虚しさを感じます。

 障碍については、本当のところはわからないのです。本当に親が悪いかどうかは、誰にも判断できません。しかし、例えば「健全な精神は健全な肉体に宿る」というスポーツ精神も、私は強い疑いを持ちます。

 それでは、身体に障碍がある人には正しい精神がないのでしょうか? 精神に障碍がある人の肉体は欠陥なのでしょうか?

 何気ない言葉が、人を傷つけることがあります。そのことを少なくてもマスコミで発言する人は考えるべきだと思います。

 そして、たとえ身体に障碍があっても、精神に障碍があっても、両方に障碍があっても、それを補いながら必死に生きている人が社会にはたくさんいるのです。そのことを少しでも、考えてみましょう。

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木陰の物語―うっとうしい―

   なぜ子どもは自分の親をあんな風に、

   うっとうしく思ってしまうのだろう。

   管理者としてうるさいだけではない。

   あふれるような愛情もまた、息苦しいのだ。

   「親になってはじめて分かる親の恩」

   という使い古された言葉がある。

   誰もが経験したことだから

   慣用句になっているのだろう。

   しかし、そういう息長い心情を

   私たちの時代は確かに引き継いだだろうか?

   いまも持ち続けているだろうか?

   子どもたちの起こす

   いろいろな事件のニュースを見ながら、

   親子関係のことを思うと確信が持てない。

******

 子どもは、時として親の存在がうっとうしくなります。親の心配を余計なお世話と考えます。でも、いつの時代でも、親は子どものことを案じ、子どもは親を遠ざけようとします。

 何のためらいもなく、子どもを抱きしめられるのは、小学生の前までかもしれません。だから、私は映画「魔女の宅急便」で、お父さんが旅に出る娘のキキを抱き上げるシーンが、とてもうらやましく思います。現実の世界では、子どもはさっさと親の手から離れていきます。

 子どもは親から巣立つことで、人間として成長するのでしょうか。親のことを「うざったく」思うことは、普通のことなのでしょうか。

 親は、子どもが生まれた時から、どんなに愛しても、これでもう満足ということはありません。いつまでも子どものことを愛し、心配します。

 そうして、親と子の関係は、いつまでも続くのでしょう。

 親の心子知らず…

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続・木陰の物語

 「家族の練習問題 ―木陰の物語―」から、もうひとつエピソードを紹介します。

 著者の息子さんが新しい自転車を欲しがりました。小さくなった子ども用はありましたが、大人用に乗るにはまだ背丈が足りません。同僚から中古の自転車をもらいましたが、他の子どもたちは変速機のついたサイクリング用自転車に乗っていました。息子さんは中古のには乗りたがりません。結局、中古が乗れなくなったら新しいのを買うことにしました。

   物を買い与えるより、与えないことが

   難しい時代になった。

   手に入らないことを通じて

   学ぶ貴重なことがあるのを

   発見する機会が手に入らない、

   という奇妙な時代になった。

   喜びも悲しみも、満足も不満も、

   みな子どもを育てる。

   そのどれもに溢れた生活こそが

   人の心を鍛えるのだと思う。

 物が溢れている、と言われるようになって何十年が過ぎたことでしょうか。

 いま、子どもたちのブームと言えば、「たまごっち」の再来。ひとりで二個も三個も持っているケースもめずらしくありません。

 ガマンすることを忘れた大人たち。

 ガマンすることを学ばない子どもたち。学ぶ機会を与えない大人たち…

 子どものためにと、なりふり構わない大人が物を買い与えていく構図は、批判するどころか、日常の当たり前の姿になりつつあります。

 大量生産、過剰広告、大量消費、大量なゴミ…

 私たちは子どもの未来を奪っているのかもしれません。

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16の木陰の物語

 昨日、このブログで紹介した「家族の練習問題 ―木陰の物語―」には、全部で16のエピソードが掲載されています。16話のどれひとつをとっても、家族・親・兄弟・子ども・障碍者・障碍児・地域・時代… と大切で大事なメッセージが込められています。

 私たちは、どのようにして、いま実存する家族と暮らすようになったのでしょうか。

 そして、これから自分の居場所である家族はどのようになっていくのでしょうか。

 この本を読んでいると、自分自身のことに重ね合わせて、いろいろと考えてしまいます。

 本書の中の、ひとつのエピソードを紹介しましょう。

 子どもがサッカーや野球など、スポーツをやることに夢中になることがあります。しかし、西武の松坂やメジャーのイチローのように大成する人は一握りに過ぎません。大半の子どもは、いつかどこかで努力だけでは突き破れない限界にぶつかります。

 挫折したその時、子どもを見守ってあげられるのは親だけなのです。挫折したことも含めて、子どもを受け入れるのは親なのです。

    多分それが親の仕事なのだろう

    そして、そこから始まる人生に、

    また夢や希望を持つ力を

    育てておいてやるのも

    親の仕事だろう。

 子どもが何らかの事で、自らの限界を悟るのは、早くて小学校の高学年、多くは思春期の頃ではないかと思います。その時、親が子どもを裏で支えてやらなければならない、という当たり前のことを痛いほど教えられました。

 子育て、親育ちには、長い道のりがあり、終わりはないことを悟り、ある種の喜びすら感じました。

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家族の練習問題

「家族の練習問題 ―木陰の物語―」

 団 士郎 著

 ホンブロック 2006年

 家族というコミュニティー、いったいなんだろうと最近よく思うことがあります。

 私たちひとりひとりには、異なった家族が存在することがあります。まず、自分が生まれ育った家族。親や兄弟と暮らした日々の記憶は一生忘れることがありません。

 もし、親が死別や離婚などの後、再婚した場合、新たな家族構成ができあがります。ステップ・ファミリーなどと言ったりします。

 そして、自分自身が結婚すると、そこに新しい家族が誕生します。子どもが生まれれば、さらに家族構成は増えていくことになります。

 私たちはいくつもの「家族」の中にいます。そのうちのひとつかふたつは、すでに解体・消滅している場合もあります。しかし、実存しなくても、私たちの記憶の中に「家族」は生き続けているのです。

 本書は、心理実践を長く務められた団 士郎氏の著書です。団氏は日本漫画家協会の会員でもあり、この「木陰の物語」はマンガと文による短編ストーリーです。

 家族が生み出すさまざまな問題を取り上げいますが、そこには「家族の理想像」というものがあるのであれば、それは幻想に過ぎないことを語っているように思います。

 今年、最初に読んだ本で、今のところ、いちばん心に残った本です。

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