心理学>障碍児と障碍者

2010年1月30日 (土)

全国障害者生活支援研究セミナー

全国障害者生活支援研究セミナー
全国障害者生活支援研究会主催のセミナーに参加しました。
引き続き、懇親会の方にも参加しました。
施設職員の方々の熱い思いと意欲、そして団結と連帯感に、あらためて感銘を感じました。
しかし、LD学会に出れば学校の先生ばかり。
精神医学の学会に出ればお医者さんばかり。
保育関連は保育士ばかり。
今日のセミナーは施設関連の職員ばかりで、異業種の私にとっては場違い感を感じさせました。

仲間内で盛り上がるのは大いに結構なことだと思います。
しかし、それだけでは力を結集して社会の流れを変え、本当の意味でのノーマライゼーション、自立支援を達成することは不可能でしょう。

支援する側にも意識改革が必要であることを考えさせられる1日になりました。

写真は、会場の新宿NSビルの窓から見た夕焼けに映える富士山。

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2009年9月22日 (火)

CBCを立ち上げます!!

このたび、CBCという組織を立ち上げました。

CBCは、Child and family Base Camp の略です。

インターネットのツールを最大限利用して、子育て支援、親・家族支援、そして保育士や専門家の支援を行っていきたいと考えています。

詳しくは、「こころのもり」をご覧ください。

http://homepage3.nifty.com/kokoronomori/

また、ブログ「えほんかいじゅうのうちゅう 100万光年の心の旅」では、CBCに対する私の決意や思いを記事にしています。こちらもご覧いただければ幸いです。

http://kokoronomori100.blog105.fc2.com/

多くの方々に参加していただきたいと思います。

どうぞよろしくお願いいたします。

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2009年5月23日 (土)

八王子盲学校見学

今日は、八王子台町にある、都立八王子盲学校の学校公開にあたり、見学をしました。

学校内はとても明るい感じでした。床の板張りを見ても、決して新しい校舎ではないことがわかりますが、意識的に明るい感じを出しているようにも思えました。これは、特別支援学校にとっては、とても大切なことです。

特殊教育、特別支援教育と言われるような、ある意味別世界と誤解されやすいところは、どれだけ日常が一般的で、社会に近いものかという意識が職員・管理者の中にないと、障碍児と保護者からは敬遠されてしまいます。

その点では、校庭が野原のようになっていたり、照明を明るくして、とても良い雰囲気な学校だと思いました。

盲学校は、視覚障碍の子どもが通います。視覚障碍にもいろいろなケースがありますが、個々に対応する先生方は本当に大変だと思います。

ただ、特別支援学校に共通してある独特な「訓練的な口調」がここでもありました。これは賛否が分かれるところです。学校の先生方は、障碍があっても将来社会に出るための訓練を学校でしっかりと行ない、社会に受け入れられるような教育をめざしています。

しかし、そのハードルが高くなるほど、先生方の口調は、訓練型になって行きます。これは、障碍児の学校だけでなく、保育園にも見られることです。

ただし、社会や地域の人々の寛容さ、包容力、差別をしない、などの部分をそのままにして、障碍児の教育ばかりに熱心になってしまうのが、伝統的な日本の構図です。

もっと、障碍を持った子どもが、のびのびできる方策はないものか、と思いました。

(もちろん、八王子盲学校の先生方や教育方針を批判しているのではありません。障碍児教育・保育全般のこととしての考えです)

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2008年4月12日 (土)

障碍は個性なのか

前職である、せいがの森保育園のホームページから、統括園長の主宰する組織のHPへ行き、さらに支援企業の「カグヤ」のHPを見ていました。

その中で、八王子市南大沢にある、特定非営利法人CEセンターの野田弘一氏が紹介されていました。野田氏は巡回相談、スーパーバイザー、障碍児の指導など幅広い活動を展開しています。せいがの森保育園においても心理相談員として、保護者・職員の力強い味方になっています。

その野田氏のコメント。

「障碍は個性です」

専門家と呼ばれる方から、よく聴かれる言葉です。

つまり、障碍を特別なもの、劣ったもの、差別するもの、排除するもの、などと捉えるのではなく、その子どもの個性として考えることによって、バリアフリーな社会を築こう、という思想があるのではないかと思います。

そのような考え方に私は異論ありません。

また、個性という意味を考える上で、次のような言い方もできます。

自転車に乗れないのは、もしかしたらその人の運動調節機能に障碍があるのかもしれません。しかし、自転車に乗れない人のことを「障碍者」とは呼びません。

つまり、読み書きや、社会性など、生きていく上でハンディキャップがたまたま障碍になってしまっただけであって、障碍はその人が持つ個性なのです。

しかし、障碍者の父親として、この「障碍は個性」という言葉には、正直引っかかるものがあります。

障碍児・者が世の中で生きていくのは、大変な障壁を数限りなく乗り越えていかなければなりません。これは重いとか軽いとか、障碍の程度によって変わることはありません。かつて「軽度発達障碍」と言われた学習障碍の子どもも、学校で地獄のような苦労をして来たのです。

そのひとりひとりの生きざま、苦渋、人と同じようにできないくやしさ、自分に対する情けなさ、やり場のない怒り、誰にも向けられない憎しみ。これらを生まれた瞬間から背負い続けているのです。

それらを「個性です」のひと言で片づけられるのでしょうか。

障碍児・者の立場に立てば、あるいは親の気持ちに寄り添ってみれば、きれいごとですまされるものではありません。

しかし、専門家の立場に立てば、きれいごとを言わざるを得ない現実があります。野田先生のように、ひとりで何百人のケースを持っていると、ひとりの子ども・家庭に深くかかわる余裕がありません。どこかで線を引いて、どこかで冷めた視点を持たないと、ビジネスとしては成り立たないのです。

私は、臨床発達心理士になった時から、障碍のあるなしにかかわらず、SOSを発信する子ども、親、家族には、最大限寄り添い、支援したいと考えて来ました。それは、どのようにクライアントを受容するか、ということでもあります。

きれいごとはやめましょう。

生身の人を私は受け入れていきたいと思います。

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2008年2月 7日 (木)

障碍者は社会の敵になるのか

1日イラクの首都バクダッドの2か所の市場で同日に爆弾テロが起き、あわせて死者72名、負傷150名という大惨事になりました。

イラク軍報道官によれば、いずれのテロも、何者かが知的障碍のある女性二人の身体に巻きつけた爆発物を遠隔操作で爆発させたことが原因であると発表しました。
これが事実であれば、これほど極悪非道な出来事はないのではないかと思います。
イラクでは、これまでも女性による自爆テロがありましたが、障碍者を使うという新たなやり方は、強い憤りを感じます。

詳細はわかりませんが、テロに利用された知的障碍の女性には、本人の肉親あるいは教師などの信頼を寄せる人物が関わっていたことが推測されます。
なぜなら、知的障碍があるからと言って見ず知らずの人の言うことを聞いてその通りに行動する、ということは考えられません。

障碍のある人ほど、信頼している、愛している人でなければ命令に従うようなことはありません。
加えて、テロリストの首謀者たちがイスラムの若者に対して説くように「死ねば極楽に行って、何でも好きなことができる」というような類いの話に乗るとも思えません。
この事件の背後には、障碍者の身近な人がテロを支援している、と考えるのが妥当でしょう。

障碍者をぼうとくする社会は、必ず崩壊します。

なぜなら、すべての障碍児・者は、いつの時代、どこの世界にも存在します。障碍は本人の責任ではなく、社会の責任なのです。誰も障碍を背負って生まれたい、生きたいという人はいません。

しかし、人は障碍を受け入れる、受容することができます。障碍を単なる「負」ではなく、人間の生き方のひとつとして受け入れることができるのです。当事者やその家族でないとわからないことかもしれませんが、障碍があることで新たな人生の生きがいを得ることもできるのです。

したがって、社会は障碍児・者の生活を保障する義務があります。
社会を構成するのは、ひとりひとりの市民です。
その市民を虐殺するために障碍者が利用されるのであれば、障碍者は排除されることになりかねません。

これは対岸の火事かもしれませんが、日本の社会においても、暴力団がらみの犯罪に障碍者が利用されているという話を聞くことがあります。刑務所における障碍者の比率は非常に高いとも言われています。

弱者を弱いモノ、低いモノ、として扱うことがどれほど愚かなことか、私たちは考えてみる必要があると思います。

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2007年11月23日 (金)

日本LD学会第16回大会

日本LD学会第16回大会
日本LD学会の第16回大会が、横浜・関内ホールで開かれ出席しました。約2000名が参加する大きな大会です。

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2007年11月14日 (水)

知的障碍の子どもは増えている?

「増える知的障害の子ども」という見出しの記事が東京新聞11月13日朝刊に掲載されていました。

子どもの総数は減り続けているが、特別支援学級(特殊学級)や養護学校に通う知的障害の子どもは急増している。全国の養護学校は教室数不足に苦慮し、文部科学省は養護学校の新築・増築で補助金アップを計画する。急増の原因はよくわからない。(中略)

少子化で小・中・高校の普通学級の人数は最近10年間で24万人以上減少しているが、養護学校の児童・生徒数は25%増。特別支援学級でも56%も増加している。その結果、全児童・生徒に占める特別支援学級や養護学校に通う子どもの割合も0.85%から1.40%に増えた。

知的障害者対象の療育手帳の発給数(18歳未満)も、1997年の117378冊から2005年の173438冊と47%も増加している。

知的障害児ばかり増えているが、原因はよくわからない。ろう学校、盲学校では生徒数は微減。養護学校では肢体不自由児や病弱児はほぼ増減がない。(後略)

障碍を持った子どもが義務教育を受けるケースは、大きく分けて4つのケースがあります。

  1. 特別支援学校(養護学校)…義務教育では比較的障碍の程度が重い子どもが入学します。高等部では他に行く選択肢が少ないので、さまざまな子どもが在学しています。
  2. 特別支援学級(特殊学級・心身障碍児学級)…一般の小中学校の中にあり、普通学級での生活が難しい子どもが入学します。
  3. 通級指導学級…普通学級に在籍して、週に一回程度通って少人数で指導を受ける学級です。教室は一般の小中学校の中にあります。教科学習を通して言葉やコミュニケーションについての指導を受けます。
  4. 一般の普通学級

近隣の地域では、定員をはるかに越える生徒が通級学級に通い、新たに入室を希望する子どもが来年度にならないと入れない状態になっているようです。普通学級でも授業や学校生活にうまくなじめない、というケースが近年非常に多くなっている、という印象があります。

それでは、本当に知的障碍児は増えているのでしょうか?

わかりやすい事例として、漫画の「ちびまる子ちゃん」に見られるように、1970年代頃までの日本の学校には、いろいろな子どもが教室の中にいました。それが1980年代に養護学校が義務化されて以降、子どもを能力別で選別することが、ごく当たり前のように進められました。同時に小学校に入学する前に行われる「就学時健診」が、健康診断や疾病発見から「障碍児探し」へと大きくシフトしました。現在では、根拠が軽薄な知能検査をおこなうことも一般的になっています。

つまり、現代の学校教育は、子どもにとって生きにくい空間になっていることは間違いありません。おりこうさんや教師の指示に無抵抗で従う、学校生活に何の疑問も持たない子どもたちは別として、多くの子どもたちにとっては学校は差別化と格差社会になっているのです。

その本質を見つめることをしないで、障碍児が増えたと安易に言うのはおかしいと思います。

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2007年8月27日 (月)

発達障碍への支援と連携

自閉症スペクトラム学会第6回研究大会が終わりました。

2日目の昨日は、学会企画シンポジュウムで、発達障碍の子どもたちに対する支援の「連携」が大きなテーマになりました。横浜、広島、京都、長崎などの事例が紹介され、各地で活発な支援活動が行なわれているようすがわかりました。

また、先週お会いした長野の保育園の園長先生からは、保育園・幼稚園・小学校の三者による独自の連携システムについてお話をうかがいました。

実情はいろいろあっても、各地で支援の連携が展開されている様子がよくわかりました。そして、それらの情報を取り入れて、自分のフィールドではどのようなことができるのか、そして何をするべきなのかを考える機会になりました。

ちなみに、特別支援教育の対象となる「軽度発達障碍」は、「発達障碍」という言葉に統一することが文部科学省から通達がありました。これは5月のことです。

軽度発達障碍の「軽度」は、本来「知的に遅れのない」という意味でしたが、「障碍が軽い」という意味に誤解されがちでした。したがって、今後は「知的に遅れのない発達障碍」などと言うようになるようです。これは、従来の知的障碍(医学用語で言う精神発達遅滞)との兼ね合いもあるようです。

発達障碍の子どもに対する支援の連携、という点では、私が所属する保育園を含むフィールドはまだまだレベルが低いと言えるでしょう。嘱託として心理の専門家が保育園にはいますが、保育園と連携がとれるという点では、はなはだ停滞した状態です。これは、それぞれの立場にいる人が、自分が抱えている情報を開示することなく(または開示する機会を作らず)、各自が勝手に動きまわっていることが最大の問題だと思います。

卒園した子どもの情報も、すぐ近くのN小学校からしか入手することができません。それもかなり時間が経過していたり、間接的だったりして、いわゆる「うわさ」ばかりが先行してしまいます。

これをお読みになっても、当事者でないとわからないかもしれませんが、要はさまざまな問題はひとりでは解決できない、したがって他の人・機関との連携が必要、そのためには情報を共有する、それぞれの立場を尊重する… これだけのことです。たったこれだけのことがうまくできないのはなぜなのか。シンポジュウムでの話を聴きながら、考えました。

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2007年8月25日 (土)

日本自閉症スペクトラム学会

日本自閉症スペクトラム学会の第6回研究大会に参加しました。場所は、八王子市の帝京大学でした。

自主シンポジュウムでは、新しい発達検査を作ろう、という分科会に参加しました。

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2007年8月19日 (日)

24時間テレビ

昨日から、日本テレビ系列で「24時間テレビ」が放送されています。お気に入りのアイドルが司会をしているということで、二女はテレビの前に座りっぱなしです。

この番組も、今年で30周年になるそうです。

番組が始まった最初の数年間は、障碍児の問題を正面からとらえた番組(最も視聴率が下がる深夜から明け方の時間帯に放送されましたが…)が流れ、福祉に対する番組制作者の意気込みが感じられました。

しかし、次第にイベント的な要素が強くなり、高齢者を含めて、福祉の生の現場からは距離を置くようなスタンスになり、単なる夏の恒例バラエティ番組になってしまいました。現場から距離を置くのは、テレビ番組の手法のひとつかもしれません。番組の中で高齢者施設を紹介しても、そこで暮らすご老人の苦労は見えてきません。現実の問題は、楽しい番組作りにとって、それこそ「障害」になるのでしょう。

現実の問題は封印して、寄付という善意を要求しているのです。

それでも、24時間テレビのロゴマークが入った福祉施設の自動車を街中で見かけることも多くなり、それなりに福祉と社会に貢献しているのでしょう。

しかし、それで福祉の問題を社会の中からすべて片づけてしまっていいのかなぁ、と思います。

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