障碍は個性なのか

前職である、せいがの森保育園のホームページから、統括園長の主宰する組織のHPへ行き、さらに支援企業の「カグヤ」のHPを見ていました。

その中で、八王子市南大沢にある、特定非営利法人CEセンターの野田弘一氏が紹介されていました。野田氏は巡回相談、スーパーバイザー、障碍児の指導など幅広い活動を展開しています。せいがの森保育園においても心理相談員として、保護者・職員の力強い味方になっています。

その野田氏のコメント。

「障碍は個性です」

専門家と呼ばれる方から、よく聴かれる言葉です。

つまり、障碍を特別なもの、劣ったもの、差別するもの、排除するもの、などと捉えるのではなく、その子どもの個性として考えることによって、バリアフリーな社会を築こう、という思想があるのではないかと思います。

そのような考え方に私は異論ありません。

また、個性という意味を考える上で、次のような言い方もできます。

自転車に乗れないのは、もしかしたらその人の運動調節機能に障碍があるのかもしれません。しかし、自転車に乗れない人のことを「障碍者」とは呼びません。

つまり、読み書きや、社会性など、生きていく上でハンディキャップがたまたま障碍になってしまっただけであって、障碍はその人が持つ個性なのです。

しかし、障碍者の父親として、この「障碍は個性」という言葉には、正直引っかかるものがあります。

障碍児・者が世の中で生きていくのは、大変な障壁を数限りなく乗り越えていかなければなりません。これは重いとか軽いとか、障碍の程度によって変わることはありません。かつて「軽度発達障碍」と言われた学習障碍の子どもも、学校で地獄のような苦労をして来たのです。

そのひとりひとりの生きざま、苦渋、人と同じようにできないくやしさ、自分に対する情けなさ、やり場のない怒り、誰にも向けられない憎しみ。これらを生まれた瞬間から背負い続けているのです。

それらを「個性です」のひと言で片づけられるのでしょうか。

障碍児・者の立場に立てば、あるいは親の気持ちに寄り添ってみれば、きれいごとですまされるものではありません。

しかし、専門家の立場に立てば、きれいごとを言わざるを得ない現実があります。野田先生のように、ひとりで何百人のケースを持っていると、ひとりの子ども・家庭に深くかかわる余裕がありません。どこかで線を引いて、どこかで冷めた視点を持たないと、ビジネスとしては成り立たないのです。

私は、臨床発達心理士になった時から、障碍のあるなしにかかわらず、SOSを発信する子ども、親、家族には、最大限寄り添い、支援したいと考えて来ました。それは、どのようにクライアントを受容するか、ということでもあります。

きれいごとはやめましょう。

生身の人を私は受け入れていきたいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

障碍者は社会の敵になるのか

1日イラクの首都バクダッドの2か所の市場で同日に爆弾テロが起き、あわせて死者72名、負傷150名という大惨事になりました。

イラク軍報道官によれば、いずれのテロも、何者かが知的障碍のある女性二人の身体に巻きつけた爆発物を遠隔操作で爆発させたことが原因であると発表しました。
これが事実であれば、これほど極悪非道な出来事はないのではないかと思います。
イラクでは、これまでも女性による自爆テロがありましたが、障碍者を使うという新たなやり方は、強い憤りを感じます。

詳細はわかりませんが、テロに利用された知的障碍の女性には、本人の肉親あるいは教師などの信頼を寄せる人物が関わっていたことが推測されます。
なぜなら、知的障碍があるからと言って見ず知らずの人の言うことを聞いてその通りに行動する、ということは考えられません。

障碍のある人ほど、信頼している、愛している人でなければ命令に従うようなことはありません。
加えて、テロリストの首謀者たちがイスラムの若者に対して説くように「死ねば極楽に行って、何でも好きなことができる」というような類いの話に乗るとも思えません。
この事件の背後には、障碍者の身近な人がテロを支援している、と考えるのが妥当でしょう。

障碍者をぼうとくする社会は、必ず崩壊します。

なぜなら、すべての障碍児・者は、いつの時代、どこの世界にも存在します。障碍は本人の責任ではなく、社会の責任なのです。誰も障碍を背負って生まれたい、生きたいという人はいません。

しかし、人は障碍を受け入れる、受容することができます。障碍を単なる「負」ではなく、人間の生き方のひとつとして受け入れることができるのです。当事者やその家族でないとわからないことかもしれませんが、障碍があることで新たな人生の生きがいを得ることもできるのです。

したがって、社会は障碍児・者の生活を保障する義務があります。
社会を構成するのは、ひとりひとりの市民です。
その市民を虐殺するために障碍者が利用されるのであれば、障碍者は排除されることになりかねません。

これは対岸の火事かもしれませんが、日本の社会においても、暴力団がらみの犯罪に障碍者が利用されているという話を聞くことがあります。刑務所における障碍者の比率は非常に高いとも言われています。

弱者を弱いモノ、低いモノ、として扱うことがどれほど愚かなことか、私たちは考えてみる必要があると思います。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

日本LD学会第16回大会

日本LD学会第16回大会
日本LD学会の第16回大会が、横浜・関内ホールで開かれ出席しました。約2000名が参加する大きな大会です。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

知的障碍の子どもは増えている?

「増える知的障害の子ども」という見出しの記事が東京新聞11月13日朝刊に掲載されていました。

子どもの総数は減り続けているが、特別支援学級(特殊学級)や養護学校に通う知的障害の子どもは急増している。全国の養護学校は教室数不足に苦慮し、文部科学省は養護学校の新築・増築で補助金アップを計画する。急増の原因はよくわからない。(中略)

少子化で小・中・高校の普通学級の人数は最近10年間で24万人以上減少しているが、養護学校の児童・生徒数は25%増。特別支援学級でも56%も増加している。その結果、全児童・生徒に占める特別支援学級や養護学校に通う子どもの割合も0.85%から1.40%に増えた。

知的障害者対象の療育手帳の発給数(18歳未満)も、1997年の117378冊から2005年の173438冊と47%も増加している。

知的障害児ばかり増えているが、原因はよくわからない。ろう学校、盲学校では生徒数は微減。養護学校では肢体不自由児や病弱児はほぼ増減がない。(後略)

障碍を持った子どもが義務教育を受けるケースは、大きく分けて4つのケースがあります。

  1. 特別支援学校(養護学校)…義務教育では比較的障碍の程度が重い子どもが入学します。高等部では他に行く選択肢が少ないので、さまざまな子どもが在学しています。
  2. 特別支援学級(特殊学級・心身障碍児学級)…一般の小中学校の中にあり、普通学級での生活が難しい子どもが入学します。
  3. 通級指導学級…普通学級に在籍して、週に一回程度通って少人数で指導を受ける学級です。教室は一般の小中学校の中にあります。教科学習を通して言葉やコミュニケーションについての指導を受けます。
  4. 一般の普通学級

近隣の地域では、定員をはるかに越える生徒が通級学級に通い、新たに入室を希望する子どもが来年度にならないと入れない状態になっているようです。普通学級でも授業や学校生活にうまくなじめない、というケースが近年非常に多くなっている、という印象があります。

それでは、本当に知的障碍児は増えているのでしょうか?

わかりやすい事例として、漫画の「ちびまる子ちゃん」に見られるように、1970年代頃までの日本の学校には、いろいろな子どもが教室の中にいました。それが1980年代に養護学校が義務化されて以降、子どもを能力別で選別することが、ごく当たり前のように進められました。同時に小学校に入学する前に行われる「就学時健診」が、健康診断や疾病発見から「障碍児探し」へと大きくシフトしました。現在では、根拠が軽薄な知能検査をおこなうことも一般的になっています。

つまり、現代の学校教育は、子どもにとって生きにくい空間になっていることは間違いありません。おりこうさんや教師の指示に無抵抗で従う、学校生活に何の疑問も持たない子どもたちは別として、多くの子どもたちにとっては学校は差別化と格差社会になっているのです。

その本質を見つめることをしないで、障碍児が増えたと安易に言うのはおかしいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

発達障碍への支援と連携

自閉症スペクトラム学会第6回研究大会が終わりました。

2日目の昨日は、学会企画シンポジュウムで、発達障碍の子どもたちに対する支援の「連携」が大きなテーマになりました。横浜、広島、京都、長崎などの事例が紹介され、各地で活発な支援活動が行なわれているようすがわかりました。

また、先週お会いした長野の保育園の園長先生からは、保育園・幼稚園・小学校の三者による独自の連携システムについてお話をうかがいました。

実情はいろいろあっても、各地で支援の連携が展開されている様子がよくわかりました。そして、それらの情報を取り入れて、自分のフィールドではどのようなことができるのか、そして何をするべきなのかを考える機会になりました。

ちなみに、特別支援教育の対象となる「軽度発達障碍」は、「発達障碍」という言葉に統一することが文部科学省から通達がありました。これは5月のことです。

軽度発達障碍の「軽度」は、本来「知的に遅れのない」という意味でしたが、「障碍が軽い」という意味に誤解されがちでした。したがって、今後は「知的に遅れのない発達障碍」などと言うようになるようです。これは、従来の知的障碍(医学用語で言う精神発達遅滞)との兼ね合いもあるようです。

発達障碍の子どもに対する支援の連携、という点では、私が所属する保育園を含むフィールドはまだまだレベルが低いと言えるでしょう。嘱託として心理の専門家が保育園にはいますが、保育園と連携がとれるという点では、はなはだ停滞した状態です。これは、それぞれの立場にいる人が、自分が抱えている情報を開示することなく(または開示する機会を作らず)、各自が勝手に動きまわっていることが最大の問題だと思います。

卒園した子どもの情報も、すぐ近くのN小学校からしか入手することができません。それもかなり時間が経過していたり、間接的だったりして、いわゆる「うわさ」ばかりが先行してしまいます。

これをお読みになっても、当事者でないとわからないかもしれませんが、要はさまざまな問題はひとりでは解決できない、したがって他の人・機関との連携が必要、そのためには情報を共有する、それぞれの立場を尊重する… これだけのことです。たったこれだけのことがうまくできないのはなぜなのか。シンポジュウムでの話を聴きながら、考えました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日本自閉症スペクトラム学会

日本自閉症スペクトラム学会の第6回研究大会に参加しました。場所は、八王子市の帝京大学でした。

自主シンポジュウムでは、新しい発達検査を作ろう、という分科会に参加しました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

24時間テレビ

昨日から、日本テレビ系列で「24時間テレビ」が放送されています。お気に入りのアイドルが司会をしているということで、二女はテレビの前に座りっぱなしです。

この番組も、今年で30周年になるそうです。

番組が始まった最初の数年間は、障碍児の問題を正面からとらえた番組(最も視聴率が下がる深夜から明け方の時間帯に放送されましたが…)が流れ、福祉に対する番組制作者の意気込みが感じられました。

しかし、次第にイベント的な要素が強くなり、高齢者を含めて、福祉の生の現場からは距離を置くようなスタンスになり、単なる夏の恒例バラエティ番組になってしまいました。現場から距離を置くのは、テレビ番組の手法のひとつかもしれません。番組の中で高齢者施設を紹介しても、そこで暮らすご老人の苦労は見えてきません。現実の問題は、楽しい番組作りにとって、それこそ「障害」になるのでしょう。

現実の問題は封印して、寄付という善意を要求しているのです。

それでも、24時間テレビのロゴマークが入った福祉施設の自動車を街中で見かけることも多くなり、それなりに福祉と社会に貢献しているのでしょう。

しかし、それで福祉の問題を社会の中からすべて片づけてしまっていいのかなぁ、と思います。

| | コメント (0) | トラックバック (3)

IEP

今日は、特別支援教育士・資格更新研修会に参加しました。
午後の講義では、アメリカの教育現場におけるIEPについて、とても興味深い話を聴くことができました。

IEPとは「個別教育支援計画」のことです。アメリカでは1975年に全障碍児支援法制定により、学校教育において何らかの特別な支援が必要な子どもに対しては、ひとりひとりにIEPを立案することが義務づけられています。

日本でも遅れてこの波がやって来て、特別支援教育がスタートした現在では、どこの教育現場でもIEPが花盛りです。
私の二女も中学校の心身障碍児学級に在籍している頃から、学期ごとに個別の指導計画が担任の先生によって立てられました。それと対になる形で学期末の成績表は、領域別に細かい評価が記入されていました。

特別支援教育を担当する先生方にとっては、IEP作成はとても大変な作業だと思います。
同時に、IEPは障碍のあるなしにかかわらず、すべての子どもに必要なのではないかと思いました。アメリカ・ニューヨーク州では、IEPソフトがあり、パソコンに入力するだけで各種の書類が作成できるものもあるようです。

「指導・支援計画」は書類の問題ではなく、子どもひとりひとりが、どんな課題を持っているか、どんな支援が必要か、ということを意識化するために必要なツールになると思います。そのためには、IEPの考え方がもっと保育や教育の現場に浸透することが望まれます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

夕涼み会のお菓子販売

明後日は私が勤務する保育園の夕涼み会です。

園長先生以下、職員の皆様のご理解とご協力により、当日お菓子の販売を行ないます。

このお菓子は、東京・稲城市にある障碍者の職業支援センター「コラボいなぎ・いなぎワークセンター」で作られたものです。

とてもおいしいお菓子です。過去2回保育園で販売を行ないましたが、すぐに完売しました。今回はクッキー、パウンドケーキ、チーズケーキなど、9種類の販売を行なう予定です。このブログをお読みの方で、夕涼み会に来られましたら、ぜひともお買い求めくださるよう、心よりお願い申し上げます。

障碍者の作業現場は、非常に深刻な問題をかかえています。そのひとつは低賃金です。伝統的に福祉現場は売り上げをたくさんあげて障碍者の賃金を引き上げよう、という発想がありません。福祉で「儲け」を出すことは良くない、というイメージがあるようです。

しかし、利益をあげなければ、当然そこで働く障碍者や職員の賃金はいつまでとっても低いままです。コラボいなぎで働く私の二女は、時給が150円です。これでも都内の施設の中では良い方なのだそうです。これで障碍者が自立した生活を送ることは不可能です。

お菓子についても、せっかく安くておいしいものを作っても、販売するルートや場所がなければ、生産は頭打ちになってしまいます。そこで、少しでも売り上げに貢献できればと思い、保育園での販売を始めました。売り上げは少額ですが、できるだけ多くの方々に、コラボいなぎのお菓子の味を知っていただきたいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

教師の育児経験

今日の新聞報道からの引用です。

 校長らの勧めに応じて教職員を早期退職すれば退職金を割り増す制度をめぐり、東京都教育庁が退職を勧める具体的なケースとして、「3歳以上の子供の場合で、育児を手伝ってくれる家族等がおらず、本人が育児を行わなくてはならない場合」「子に先天的、後天的な障害がある等、育児に特段の事情がある場合」などを例示した文書を市区町村教委や都立高校などに通知していることが分かった。厚生労働省は職業と家庭の両立を目的とする育児介護休業法の趣旨に照らし「好ましくない」と指摘し、学校現場や識者からは「介護を抱え全時間出勤できない教員は不要ということか」と疑問の声が上がっている。

記事によれば、自分の子どもに障碍がある場合、東京都の教員は退職勧奨の対象となるそうです。私生活で育児や介護が大変な場合は、正常な勤務および教師としての業務ができない、と決めつけています。

私は、自分の子育てで苦労した経験が多いほど、教育や保育の仕事においてその経験を生かした実践ができると思います。もちろん、育児の経験がない人が教師や保育士として半人前という意味ではありません。また、自分の育児を優先させてクラス運営がおろそかになっている教師や保育士がいないわけでもないでしょう。

しかし、子どもに障碍があるから退職してもらう、という考え方には納得できません。実際にその通りの勧奨がされるかどうかはわかりませんが、具体例として「障碍」をあげているのですから、非常に大きなお世話ではないかと思います。

障碍を持った子どもの育児は、その親でなくてはわからないことがたくさんあります。中には仕事が続けられないことを選択した人も多いでしょう。でも、そのことが理由で仕事が続けられない社会は、人に厳しく情けもない経営優先主義と言えるでしょう。

障碍を持った子どもを育て、その育児体験が、他の子ども・生徒たちに「生命の大切さ」を教えることができるのではないでしょうか。それがある意味、現代の伝承ではないかと思います。

東京都教育庁のお役人は善意のつもりで言っているのでしょう。当然そこには自分たちが言ったことに疑問を持っているとは思えません。

また、心のすれ違いです…

| | コメント (0) | トラックバック (1)

ゆとりのない教育現場

今日のニュースで、信じられない、けれども十分にありうるような事が報じられていました。少し長いのですが、引用します。

 東京都足立区教育委員会は7日、昨年4月に区が独自に実施した学力調査(テスト)で、トップの成績の小学校が、保護者の了解を得ずに情緒障害などのある児童3人の答案を採点対象から除外していた、と発表した。区教委は「保護者に説明せずに不適切だった。申し訳ない」とコメントした。
 区教委によると、学力調査は、小学2年~中学3年生を対象に04年度から区が独自に実施し、各学校ごとの順位を公表している。この学校は、05年度は44位だったが、06年度はトップになった。
 3人はいずれも6年生(当時)で、情緒障害などが見られる。普通学級に在籍しているが、週に何回かは別の学校の特別なクラスに通っていたという。
 3人はテストは受けたものの、「文章を理解する力が通常より難しい」などの理由から、校長の判断で採点対象から除外した。区教委は事前相談や保護者の了解があれば、問題の理解が難しい児童の採点除外を認めているが、この学校はその手続きをしなかった。校長は「怠った」と説明しているという。3人の児童の親のうち2人は校長の説明に納得していない。
 同区では、学校選択制を02年度から実施しており、成績の上位校に入学希望者が集まる傾向にある。この学校は、誤答している児童の机を教師がたたくなどの疑惑も指摘されているといい、区教委は、さらに調べる。区教委は「児童に対する配慮」を理由に、学校名は明らかにしなかった。(毎日新聞より)

学校教育から障碍児を排除する。

学校教育のすべてに高成績、高得点を優先させる。

この出来事に対して、いくらでも批判を述べることはできます。しかし、批判をしたところで、多分当事者である学校の先生方には理解できないのかもしれません。

また、学校教育に競争原理を取り入れたことによって生じた問題であるとも言えます。しかし、競争することが正しいことだと信じている先生方には、やはり理解できないのかもしれません。

障碍児は競争の対象にならないから排除することが親切で正しいことだ、と考えている先生方もいるのかもしれません。

ゆとりのない教育。常に成績の高い低いで質も量も判定してしまう教育。さらにそれを支援する市民…

何が正しいのか、本当にわからなくなってしまう「事件」だと思います。

なぜ競争しなければならないのでしょうか。競い合うことに何の意味があるのでしょうか。学校教育という一部の知識に優れた者だけが祭り上げられ、それを目標にみんなが目指し、そして弱者だけが取り残されていく…

そんな社会が正しいのでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ねむの木のこどもたちとまり子美術展


六本木ヒルズへ行きました。



すごいなぁ!

日本経済の象徴だぁ!



いえいえ…



格差社会を象徴する鉄の灯ろうです…




ねむの木学園創立40年記念として「ねむの木のこどもたちとまり子美術展」が52階の森アーツセンターで開催されていました。



たくさんの素晴らしい子どもたちの作品を観て、再び感動で胸がいっぱいになりました。



しかし、時の流れは残酷な事実を浮き彫りにさせます。



私たちの世代から上の人々にとって、「宮城まり子とねむの木学園」は、まさにあこがれと尊敬の対象でした。日本の障碍児福祉を語る上では、欠くことはできない存在です。



しかし、保育園職場においては、20代、30代の保育士は、「ねむの木学園」の存在も、名前も知りません。



美術展の会場内も年配の方がほとんどで、若い人はまばらでした。



これでいいのでしょうか…



少し複雑な気持ちで、六本木ヒルズを後にしました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

認知の偏り

水曜日に園内職員研修がありました。

テーマは「発達障碍」。

知的障碍や肢体不自由障碍などに加え、近年は学習障碍、注意欠陥多動性障碍、広汎性発達障碍などの、いわゆる「軽度発達障碍」がクローズアップされています。保育園などでは「気になる子」という言われ方もされます。

知的な障碍がない、ということから「軽度発達障碍」と言われますが、実は学校生活、社会生活を送る上で、かなりの問題が表出しやすいことから、文部科学省などの公文書では「発達障碍」と言っています。

私も「軽度」というのは、いろいろな点で誤解を受けやすいことから、あまり好ましい表現ではないと思います。先日の特別支援教育士東京支部総会では、「知的に遅れがない発達障碍」という言い方をしていました。

しかし、知的に障碍があるかどうか、ということはどこかではっきりと分かれる基準線があるわけではありません。医師は診断するのが仕事なので、何かしらの障碍名をつけなれればなりません。でも、現実にはさまざまな子どもがいて、「障碍がある・ない」という線引きができるわけではなく、するべきではないと考えます。

そこで登場するのが「認知の偏り」という言葉です。

「認知」とは、日本の場合、婚姻関係にない女性との間に生まれた子どもを自分の子どもとして承認する場合、「認知する」と言います。

ここでは、心理学的な意味で、外界のさまざまな事象に対しての思考や判断、感情などの高次な脳内活動を「認知」と言います。

「認知の偏り」とは、社会性がない、相手の立場や気持ちが理解できない、自分の感情をコントロールできない、など「発達障碍」が持っている問題を指します。障碍があるかどうか、障碍名は何か、ということを追求するのではなく、この子どもの認知の偏りにはどのような特性や問題があるか、ということを考えることが大切なのです。

その上で、講師のCEセンター所長・野田弘一氏が開発した「見守る保育・プラス」というコンピューターソフトを試しました。これは、子どもの発達状況に関する質問項目にイエス・ノーで答えていくと、その子どもの認知の偏りがグラフで示されるというものです。

質問項目に答える発達診断は、いわゆる「質問紙法」と呼ばれるもののひとつで、代表的なものは「津守・稲毛式発達診断法」「九大式発達診断法」などがあります。非常に手軽に、しかも短時間でできて評価も出しやすい、ということから保健所や療育センターなどで、発達・発育相談のスクリーニングとして使われることが多いようです。

しかし、問題点もあります。質問紙法は多くの場合、養育者(親)が答えます。「津守・稲毛式」であれば、質問項目(例えば「ボールを投げる」など)について、できるは○、できなければ×、わからなければ△をつけます。研修で使った「見守る保育」は、パソコン上で、その項目ができればチェックをつけ、できないものにはチェックをつけない(はずす)という作業を行います。したがって、回答者の価値観、観察力、発達に対する理解力などによって、評価に大きな違い・差が出てしまいます。一般的には、養育者が行うと期待値が先入観として入るため、高い評価が出る場合が多いようです。

ここで気をつけなければならないのは、チェックをする側の人にも「認知の偏り」がある場合もあるのです。人によって大きく評価が違う結果が出てしまう以上、質問紙法はあくまでも参考資料のひとつとして見るべきです。評価がその子どもの発達をすべて現しているわけではありません。

また、この研修で気になったことがもうひとつあります。

それは、「見守る保育」ソフトを使う実習を研修で行った時、実際の園児を表出して行ったことと、そのことに対して職員のだれ一人として疑問を持たなかった、という職場の空気です。

事例研究を行う場合、最も問題になるのは、その事例としてあげられる本人および養育者の同意を得るかどうか、という点があります。もちろん、原則として同意(つまり事例として研究対象にするということについての同意)を得た上で事例とさせていただくのですが、意外とこの点において倫理観に欠ける場合が目立ちます。

自分たちが知らないところで、自分の子どもについて、いろいろと評価されていることを養育者が知ったらどのように感じるでしょうか? このようなごく当たり前のことが無視されています。私だったら絶対に許せません。

アメリカでは、養育者の同意を得て、さらに養育者が事例研究の場に出席することも多いと聞きます。日本ではほとんど考えられないことですが、この心理学的な倫理観があいまいにされているところが、強い憤りを感じました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

特別支援教育

特別支援教育士「S.E.N.S」の東京支部設立総会および記念講演に参加しました。

講演は、今年4月から実施されている特別支援教育の動向と、特別支援教育士に期待すること、が主要テーマでした。

講師は東京都教育庁指導部の太田裕子氏でした。

特別支援教育は、発達障碍を持った子どもたちのためにスタートしたものですが、その対象はすべての子どもたちです。

障碍のない子どもが、障碍のある子どもを理解する…

これが、とても重要なことです。

また、発達障碍と言われるものは、生活をする上で、社会を生きる上で、たまたま不都合なことが起きてしまったことです。それは文化や時代によって大きく左右されることなのです。

例えば、読み書きの障碍は、日本の社会では致命的に大変なことです。しかし、自転車に乗れないことは、生きていく上ではさほど困ったことではありません。

特別支援教室や通級指導学級の整備・増設も緊急の課題であることには間違いありません。

しかし、一般通常学級において、問題は多発しているのです。

例えば、社会問題となっている虐待やいじめと発達障碍は底で関連しているケースがたくさんあるのです。

学校の外にいる私が、何をすべきなのか、また何ができるのか、また大きな宿題をいただきました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

TEACCHプログラム研修

今日は臨床発達心理士・東京支部研修会に出席しました。場所は白金の明治学院大学です。

午前中は「TEACCHにおける自閉症支援の実際」というテーマで講義が行なわれました。

TEACCHとは、アメリカ・ノースカロライナ州で実践されている、自閉症児・者の治療教育プログラムのことです。

講師のお話でとても印象的だったのは次のようなエピソードでした。

「日本の教育はクラスの子どもたち全員に同じカリキュラムを教えることが平等だと考えられている。アメリカは、ひとりひとり個々のニーズに対応した教育プログラムを提供することが平等だと考えることが常識になっている」

ハンディを持った子どもを他の子どもたちから隔離することが、今までの日本の教育でした。しかし、今年度からスタートした特別支援教育は、インクルージョン(包括的)教育でなければならないと思います。

TEACCHは、そのお手本になると思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

障碍者の就職は改善されたのか?

報道からの引用です。

厚生労働省は15日、2006年度のハローワークを通じた障害者の就職が前年度比13.1%増の4万3987人となり、過去最高を記録したと発表した。同省は、障害者の就労意欲の高まりに加え、企業の意識向上やハローワークでの支援強化などが寄与したと分析している。
 障害者就職の内訳は、身体障害者6.9%増、知的障害者12.7%増、精神障害者44.5%増。障害者が06年度に申し込んだ求職に対する就職の割合を示す就職率は全体で42.4%と2.6ポイント改善した。 

この記事によれば、障碍者の就職は改善されつつあるようです。しかし、就職率は42.4%で、求職者の半数以上は依然として就職できない状況にあるのです。

また、実際に就職しても、賃金の水準は非常に低く、一般の就労条件とは比較になりません。

昨日、私の二女が就労支援センターで生まれて初めての賃金をいただきました。労働条件は、一般的な障碍者作業所と比較すれば、かなり良い環境にあると思います。しかし、時給に換算すると150円です。東京都の最低賃金が時給700円ですから、一般との格差は非常に大きいものがあります。

そして、障害者自立支援法による、施設利用料、昼食代、通勤のための交通費などを差し引けば、当然のことながら大赤字になってしまいます。

これで、障碍者はどうやって自立した生活を送ればいいのでしょうか!

思わず怒りがこみあげてしまいます。

憲法を改正する前に、社会的弱者の権利保障を考えてほしいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

「不審者情報」を考える

保育園にいると、時々「不審者情報」というのが、市役所や警察、地元小学校のPTAなどから伝わってきます。

例えば、最近のものをあげてみると…

「4/2517:30頃、○○二丁目の公園内において、女子児童が見知らぬ男に声をかけられ、後をつけられる事案が発生しました。女子児童は走って逃げ帰ったため実害はありませんでした」

「4/1918:40頃、○○四丁目の公園内において、露出狂が出没したとの情報がありました。不審者の特徴:30-40歳位、身長170cm位。」

以下、「これから夏場にかけて露出狂が出没や痴漢には十分に注意し…」と続きます。

不審者の情報というのは、特定の地域に多いというよりは、どこの地域でもそこに人が住んでいる限り、頻繁に流れているような印象を受けます。保育園があるニュータウン地域は、おおざっぱに言ってしまうと、住宅地域は本当に住宅しかなく、交番などは駅前くらいにしかありません。その点では、いざ何かあった時に、子どもは助けを呼ぶことが大変難しい状況にあります。卒園した一年生が全員学校から支給された防犯ベルを携帯しているのも、対策のひとつなのでしょう。

さて、なぜ「不審者」と呼ばれる人が出てくるのでしょうか。

例えば「小児性愛」(自分よりかなり年少の少年少女に対して性的興奮を覚える精神疾患)の人は現実にいるようです。しかし、その人たちがそのまま痴漢などの犯罪に走るわけではありません。先日、書店のレジに並んでいたら、隣で会計をしていた学生風の男性は、少女が下着姿になった写真集をたくさん買いこんでいました。彼はもしかしたら「小児性愛」かもしれません。しかし、彼は写真集で満足して、犯罪まで行きつくとは断定することはできません。

また、私が勤務する保育園の前園長先生は、「男性保育士は、全員ロリコンだ」と公言しています。事実、横浜の保育園で女子幼児の裸の写真を撮り続けていた男性保育士が逮捕された事件がありました。子どもに対する「愛しみ(いつくしみ)」は、時として異常な性愛を誘発してしまうことがあるのかもしれません。もちろん、ほとんどの男性保育士は正常であると期待していますが…

さらに、数年前、東京・浅草でレッサーパンダの帽子をかぶった男が女性を刺し殺してしまう、「浅草事件」があったことを記憶している方もいらっしゃると思います。犯行を行なった彼は「高機能自閉症」という障碍を持っていることがわかりました。このように、犯罪者の中には、何パーセントかの割合で障碍者が含まれていることがあるようです。

しかし、障碍者=犯罪者ではありません。このあたりの短絡的思考が障碍者への差別にもつながりかねません。犯罪者の中に、たまたま障碍者がいたのです。

かなり以前のことですが、露出狂(例えば性器を露出するなど)を繰り返す知的障碍者が私の住んでいる地域に居たことがありました。このケースでは、露出をする彼は「恥ずかしいところは隠すのが社会の常識」ということが理解できていなかったのではないかと推測されます。

このようにして考えると、正常と異常を区別するのは非常に難しく、また区別できないものなのかもしれません。インターネット上に流れるアダルト情報は、男性の私でも閉口してしまいます。不審者を生み出しているのは、私たちの社会なのかもしれません。

最後に、「不審者は、実は誤解だった」ということも考えられます。最初の情報にある「声をかけた」というのは、実は道順を聞きたかったのかもしれません。女子児童が逃げたので、あわてて「違うよー」と追いかけてしまったのかもしれません。このように考えるのは、最近電車の中での痴漢行為が冤罪であった、という話をよく聴くからです。

情報をすべて鵜呑みにするのではなく、よく考えて判断することも大切だと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (6)

障碍診断の難しさ

「現代のエスプリ 476

スベクトラムとしての軽度発達障害Ⅱ」

2007年2月発行

至文堂

子どもに障碍があるかどうか、という診断をするのは医師(原則的には児童精神科医)が行う仕事です。

しかし、昨今の「軽度発達障碍」というあいまいな概念が、まるで流行のように教育関係者やマスコミで言われるようになり、私は個人的には、「障碍」という概念がいっそうわからなくなりました。

「軽度発達障碍」という診断名は実際には存在しません。

知的な遅れをともなわない、学習障碍(LD)、広い意味での自閉症圏を意味する広汎性発達障碍、注意欠陥/多動性障碍(AD/HD)などが軽度発達障碍のカテゴリーに入るとされています。ただ、これに知的に障碍がある子ども、あるいは境界とよばれる子どもたちを含めるかどうか、専門家でも議論が分かれるところです。

また、例えば広汎性発達障碍については、最近私の周囲で何人もの子どもがこの障碍名を診断としてつけられて来ました。この障碍の概念もあいまいなことは、子どもを観察していて実感するところです。「障碍の専門家が診断すれば、誰でも広汎性発達障碍と言われてしまうなぁ」と思うことはとても多いのです。

専門書を読んでも、諸説が並記されているだけで、ますますわからなくなります。

現状では、まず子どもの行動をよく観察して、その子どもの状態を知ることが大切だと思います。知能検査も大切ですが、発達を個体の成長と位置づけている諸検査は、あくまでも子どもを知る上での一部分にすぎないことを認識すべきだと思います。

子どもが発達する過程において、養育者(親)との関係、保育士との関係、兄弟の関係など、さまざまな人間関係を無視することはできません。いろいろな人との関わりから、子どもは発達するものだからです。どんなに優秀な子どもでも、一人で成長することはできません。

じっくり、じっくり、子どもとかかわっていきましょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

コラボいなぎ いなぎワークセンター 入所式


今日は、コラボいなぎ・いなぎワークセンターの入所式に参加しました。



ここでは、障碍を持った人たちが、一般企業就労および自立した生活を送ることを目標に、支援を受けながらさまざまな活動を行ないます。



私の二女は、ここの製菓部門で、お菓子作り、包装、配送、販売を行ないます。



社会人としてのマナーと技能を身につけ、自立へむけてがんばってほしいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

障害者自立支援法

多摩市手をつなぐ育成会主催による、障害者自立支援法についての講演会に参加しました。

施行から4か月が経過した「障害者自立支援法」は、さまざまな問題をはらんでいます。

ただ、わからないことも多く、もっと勉強する必要があります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

特別支援教育報告会

八王子市教育委員会主催による「特別支援教育報告会」が八王子市芸術文化会館・いちょうホールで開催されました。

これは2007年度4月から実施される特別支援教育について、今までの取り組みと、これからの見通しについて、学校関係者および保護者、市民に報告するための会でした。

実際には、セレモニー的なイメージが強く、本当にこれからの学校教育に変化があるのか、よくわかりにくい内容でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

子どもへの支援は家族への支援

「LD&ADHD」

特集・「家族への支援」を考える


2006年10月

明治図書
子どもへの支援を考える時、一般的には子ども自身への支援が考えられます。これは障碍がある無しに関係ないでしょう。
しかし、子どもが保育園や学校にいるのは、昼間の時間でしかありません。夜を含む一日の多くの時間は家庭で過ごします。その場合、家庭での生活環境、親の養育のあり方、兄弟関係など、子どもを取り巻く状況にはさまざまなものが関わって来ます。
したがって、子どもの支援を考える場合は、その家族の支援も視野に入れなければなりません。
常識的には、私たち第三者の他人が家庭に入り込んであれこれと指導する、などということはできません。家族との面談などを通して、家族が抱える苦しみや悩みを受け止める必要があります。
特に、障碍がある子どもの場合、家族の苦悩は想像以上のものがあります。それを知ったかぶりして受け答えすることをすると、家族から信頼を得ることはできません。できるだけ家族の立場に立って、気持ちを受け止め、共感することが大切です。
学校や保育園の空間だけで子どもの教育・保育を考える時代は終わりました。子どもを支援することは、家族を支援することです。このことを教師も保育士もはっきりと自覚することが大事ではないでしょうか。

| | コメント (0) | トラックバック (3)

特別支援教育・その2

1月22日付 東京新聞のコラムより…

******

教育が政治課題になると必ずと言っていいほど法律や制度の改正論になる。そうしないと政治の出番がない。「百家争鳴」に見える安倍晋三首相肝いりの教育再生会議の第一次報告も同じ道をたどっている。夏に参院選を控えており、より必然なのだろう▼「ゆとり教育」見直しのための学習指導要領改定、教育委員会制度の抜本改革、校長や教頭を補佐するポストを新設するための学校教育法改正… 教育が再生するのか、実感がわかない。再生に長い月日を要することは感じる(後略)

******

特別支援教育もひとつの制度改革です。

特殊学級は、特別支援学級になります。養護学校は特別支援学校になります。名称が変わっても、運用の仕方が変わらなければ、何も変わりません。

数年前から障碍児の教育現場では、個別指導計画―いわゆる「IEP」が作成されています。年度ごと、学期ごとにひとりひとりに応じた指導計画が担任教師の手によって作られ、保護者に配布されます。子どもはひとりひとりみんな違う問題を抱えています。ですから、指導計画が個別に立てられることは、保護者にとってもうれしい限りです。

しかし、現実には指導計画の立て方、つまり入口の方法論でつまずいてしまっているのが現状なのではないでしょうか。先生方は必死になって個別指導計画を立てますが、内容が実際の教育現場とはかい離していたり、計画書のフォームにこだわったりなど、枠組みで悪戦苦闘が続いています。

特別支援教育が、本当に子どものための支援になるのか。それはまだ誰にもわかりません。私も日本LD学会認定の「特別支援教育士」の資格を取るために3年間勉強を続けて来ましたが、まだ先はわからない状態です。

小学校へ子どもを送り出す保育園の立場としては、安心できるシステムを学校教育に期待したいところです。制度の改革が看板倒れにならないよう、私たちも自らの現場でがんばるしかありません。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

特別支援教育


「こころの科学 124

特別企画・就学相談と特別支援教育」


日本評論社 刊

2007年度の4月から、小学校、中学校で特別支援教育がスタートします。これは、今まで「特殊教育」と呼ばれていた障碍児に対する教育の革命でもあります。

今までは、「障碍がある」「障碍がない」という区別で子どもの就学先が決められていました。障碍がある子どもは、「特殊学級」あるいは「心身障碍児学級」、または「養護学校」へ入学しました。

しかし、近年、LD(学習障碍)、ADHD(注意欠陥多動性障碍)、さらに高機能自閉症やアスペルガー症候群などを含む広汎性発達障碍(PDD)などの子どもたちが一般の学級に多数在籍していることが問題になりました。その割合は、平均して全体の6%強と言われています。

もともとこれら「軽度発達障碍児」と呼ばれる子どもたちの他に、知能指数が境界値周辺にある「軽度の知的障碍児」が一般の学級に2%程在籍していると言われています。

一般の学級(「普通学級」という言い方をしますが)では、教師の指導能力や教育環境に限界があり、これら個別に支援する必要がある子どもたちをサポートできるシステムがあまりありませんでした(「通級指導学級」という制度があります)。

特別支援教育は、障碍があるなしにかかわらず、ひとりひとりに応じた支援を行う「インクルージョン」という考え方に基づき実施されます。これは、学校教育の改革的新システムとも言えるでしょう。

ただし、具体的にはどのような取り組みをするのか、その地域、その学校によって違うようです。問題なのは、新しいシステムを導入するにあたり、国家からの予算がないということでしょう。単純に考えて、ひとりひとりの支援を行うためには、それだけ多くの人的資源が必要になります。予算の中で多くの割合を占めるのが人件費です。その予算がない新システムというのは、どういうものなのでしょうか。

期待と不安の中、新しい船出を見守りたいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

双極性障害

双極性障害

「こころの科学 131

特別企画・双極性障害」

******

「双極性障害」とは、躁うつ病のことをさします。

躁状態は、簡単に述べると元気が良すぎて、行動力が活発すぎて、明るい状態です。睡眠を十分にとらなくても、遊びに仕事にバリバリと行動します。それに対してうつ状態は、気分が落ち込み、何をやっても楽しくない状態が継続して続くことです。

躁うつ病は、その二つの状態が交互にやってくる精神疾患です。

近年、うつ病には社会における認知度と理解が深まり、「怠けている」状態ではないことが知られて来ました。年間三万人を越える自殺者の中には、かなりの割合でうつ病患者が潜在していると言われています。気分が落ち込むだけではなく、頭痛や肩こり、だるいなどの身体の不調が症状として現れる「仮面うつ病」というのもあります。これは、本人がうつ病と自覚しにくい状況になりがちです。

作家や芸術家にも双極性障害を持っていた人は多くいたようです。代表的なのはゲーテでしょう。ゲーテの作品には、明らかに双極性障害の主人公が登場します。

「こころの科学 131」の中で、特におもしろかったのは、順天堂大学医学部の井原裕氏による『「激励禁忌」神話の終焉』です。

それによると、うつ病の患者には「激励」することが禁忌(絶対にしてはいけない)なのだそうです。励ますことによって、患者は過度の負担を感じ、自殺衝動を誘発しかけない、というのが日本の医学界では常識となっていて、医師国家試験にも出題されるようです。ところが、英語圏の医学書には、うつ病患者を励ますことが奨励されており、特に認知行動療法などの心理療法では、励ましは重要な意味を持つこととされています。「薬を飲めば大丈夫ですよ」というひと言すら、日本の医師は言えないのが現状だそうです。

うつ病患者は、心のどこかで、人からの支援、励ましを求め、待っているものです。励ましは「脅し」でも「過大な期待」でもありません。もちろん、言葉の使い方によるのですが…

精神科医療の限界と難しさを見たような気がしました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

軽度発達障碍とは…

軽度発達障碍とは…

「現代のエスプリ 474

スペクトラムとしての軽度発達障害Ⅰ」

編集 石川 元

2006年12月

至文堂

近年、「軽度発達障害」という言葉がよく聞かれます。専門家によってその定義はさまざまですが、大枠で捉えると、「知的な遅れを伴わない」「広汎性発達障碍(自閉症、アスペルガー障碍など)」「学習障碍(LD)」「注意力欠陥多動症候群(ADHD)」などの障碍を言うようです。

そこで私は前々から疑問に思っていたことがあります。

「軽度発達障害」が「知的な遅れを伴わない」のであれば、以前に「軽度の発達障碍」と言われた、軽度の知的障碍、あるいは境界域にいる子どもたちは何と表現すればいいのでしょうか。

学校教育で行われる「特別支援教育」が、軽度発達障害の子どもたちを対象とするのであれば、一般学級にも、障碍児学級にも存在する「軽度の知的障碍」の子どもたちは、支援の対象からはずれることになります。

「軽度の知的障碍」と言っても、さまざまな状態・ケースがあり、「単に知能が遅れている状態」と括ることはできません。軽度発達障害と診断される子どもたちの中にも、知的に遅れている子どもは存在します。

つまり、子どもを能力や発達で線引きすることはできないのです。これは当たり前のことですが、非常に重要なことです。

ここで、「スベクトラム」という概念が重視されます。「スベクトラム」とは連続性を意味します。障碍の程度は、すべてスベクトラムであり、一般学級に在籍する子どもたちにつながっているのです。

現在、最も一般的に使われるのは「自閉症スベクトラム」という考え方です。重い自閉症の人から、程度の差はあれどの人も持ち合わせる「日常生活の中でのこだわり」まで、自閉症という症状はスベクトラムと言えるのです。

同じように、障碍と呼ばれる症状は、知的能力も含めてスベクトラムなのではないかと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

バーナード・リムランド氏 死去

報道によれば、アメリカ自閉症協会の創設者で、自閉症研究の先駆者である、バーナード・リムランド氏が死去されたそうです。

ダスティン・ホフマン主演の映画「レインマン」(1988年)の制作にも深く関わりを持った方でした。

自閉症は、その原因も含めて、まだまだわからないことも多いのです。治療方法、教育・保育の方法も多岐にわたり、学説は複雑を極め、それが現場の混乱につながっています。

育児方法の不適切が自閉症の原因だ、という偏見が今でも強く残っています。

バーナード氏は、自閉症を発達の障碍と指摘したパイオニア的な存在でした。

慎んでご冥福をお祈りいたします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「発達障害とメディア」

「発達障害とメディア」

「発達障害とメディア」

野沢 和弘(毎日新聞記者)

北村 肇(「週間金曜日」編集長) 編著

現代人文社

2006年2月

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「発達障害の心理臨床」

「発達障害の心理臨床」

「発達障害の心理臨床

子どもと家族を支える

療育支援と心理臨床的援助」

田中 千穂子・栗原 はるみ・市川 奈緒子 編

有斐閣アルマ

2005年9月

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「障害児の親から健常児の親へ」

「障害児の親から健常児の親へ」

「障害児の親から健常児の親へ

統合保育が当たり前の世の中になることを願って」

石井 利香 編

協力・淵野辺保育園

朱鷺書房

2000年11月

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「子どもの障害をどう受容するか」

「子どもの障害をどう受容するか」

「子どもの障害をどう受容するか