戦死者と戦没者

毎日新聞の8月23日付夕刊を読んでいて、「戦死者」と「戦没者」の違いがわかりました。

「戦死者」は、戦争においてみずからの意志で戦闘に参加して死亡した人のことを言うそうです。つまり、覚悟の死だということです。したがって、「英霊」という名のもとに、亡くなった後は「戦死者」として靖国神社に合祀されます。靖国神社は「戦死者」だけを慰霊する施設です。

「戦没者」は、心ならずも原子爆弾や空襲で死んだ人々のことで、戦闘員ではなく一般の市民が亡くなった場合に言います。戦闘員でも、輸送船とともに海の底へ消えた人たちは広い意味で「戦没者」になるそうです。「戦没者」は千鳥が淵戦没者墓苑で慰霊されています。

保守系の文化人や国会議員の方々は、戦没者より戦死者が格が上だと思っているそうです。みずから死を覚悟の上で戦った人は、「心ならずも死に追いやられた人―戦没者」よりも英雄であり、優れていると考えているそうです。

本当に、そう思いますか?

私は「卑怯者」と言われてもいいから、戦争になったら逃げる方でしょう。もちろん、家族や友人たちを守ることは忘れませんが、だからと言って戦闘者になって、勇敢に戦おうとは思いません。

「無駄死に」という言葉がありますが、戦闘で戦って死んだ人は意味のある死で、原爆で死んだ人は無駄死になのでしょうか。死に方にも格付けしたがる人の気持ちがわかりません。戦争によって死んだすべての人々は究極の悲劇であることに違いはありません。戦闘者だけを称える風習や考え方は、現代の社会の中にも割と多く見られます。私は非戦闘員の名誉を守りたいと思います。

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ブリーフセラピー・その2


今日も、昨日に続いてブリーフセラピーの講座に参加しました。



ブリーフセラピーでは、クライアントに対するセラピストとしての姿勢や心構えが非常に重要になります。



例えば、言葉の使い方、傾聴の仕方や姿勢、質問の言い方やタイミングなどです。



またクライアント自身、または子ども個人の問題に焦点をあてるのではなく、成功体験を生かし膨らませることを重視します。



これは子どもの現場では非常に大事な事だと気がつきました。子どもは、しばしば失敗を繰り返します。大人だって同じ失敗をすることは珍しくありません。失敗したことを注意してばかりいたら、子どもは、人はどうなってしまうでしょうか。



成功体験を膨らませる!



この一言で生き方がガラリと変わってしまうようです。



もちろん、ブリーフセラピーはこのような単純なものではありません。さらに研さんを積み上げたいと思います。

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ブリーフセラピー

明治安田こころの健康財団主催の心理臨床講座「体験するブリーフセラピー」に参加しました。

ブリーフセラピーとは、短期療法という意味です。時代の流れは、どんどんスピード化されています。その時流に乗ったのが、ブリーフセラピーだと言えるかもしれません。

あらかじめ治療回数などを設定して行なうセラピーなので、精神分析療法とはまったく考え方が異なります。

(ただし、私もまだ学び始めたばかりなので、ブリーフセラピーとはこのようなものです、という説明ができません)

ただし、非常におもしろく、保育現場でも使えそうです。

講座は明日も行なわれます。

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「The Spitfire Grill」

「The Spitfire Grill」

邦題「この森で、天使はバスを降りた」

Spitfire02

監督・脚本:リー・デビッド・ズロートフ

製作:フォレスト・マーレー

音楽:ジェームズ・ホーナー

キャスト:アリソン・エリオット/エレン・バースティン/マルシア・ゲイ・ハーデン/ウィル・パットン/他

1996年製作・公開

アメリカ映画

傷害致死で女性刑務所に五年間服役したパーシー。出所してカナダに近いメイン州のギリアドという森に囲まれた街でバスを降りる。インディアンの伝説で「神が最も美しい土地だと君臨した」という自然豊かな街で、パーシーはもう一度人生をやり直そうとする。保安官から第二次世界大戦の英雄の未亡人サラが経営しているレストランの住みこみ店員の仕事を紹介してもらう。

外部の人をよそ者扱いする田舎独特の雰囲気の中で、パーシーは次第に町の人たちとも交流できるようになる。パーシーに警戒していたサラも、彼女に店をまかせるまでになってきた。

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忘れることができないパーシーの暗い過去。アメリカだけではなく、現代社会の暗部の中で生きてきたパーシーの生い立ちが彼女の影をあらわしています。

人間との交流を一切拒絶して森で暮らすサラの息子イーライ。パーシーとの交流で女性としての生き方に目覚めるシェルビー。そしてパーシーによって心を開くようになるサラ…

小さな街で、さまざまな人間関係が交錯します。お互い信頼しあって生きていくことの楽しさ、生きがいを感じさせてくれます。しかし、ラストはあまりにも理不尽な悲しみが待っていました。「これでいいの!」と思わず叫びたくなってしまいます。幸せから遠いところで生きてきたパーシーが、街の人たちに人とのつながりの素晴らしさを感じさせてくれる流れはとても感動しました。

しかし、繰り返しますが、ラストの悲劇は受け入れ難いものでした…

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双極性障害

双極性障害

「こころの科学 131

特別企画・双極性障害」

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「双極性障害」とは、躁うつ病のことをさします。

躁状態は、簡単に述べると元気が良すぎて、行動力が活発すぎて、明るい状態です。睡眠を十分にとらなくても、遊びに仕事にバリバリと行動します。それに対してうつ状態は、気分が落ち込み、何をやっても楽しくない状態が継続して続くことです。

躁うつ病は、その二つの状態が交互にやってくる精神疾患です。

近年、うつ病には社会における認知度と理解が深まり、「怠けている」状態ではないことが知られて来ました。年間三万人を越える自殺者の中には、かなりの割合でうつ病患者が潜在していると言われています。気分が落ち込むだけではなく、頭痛や肩こり、だるいなどの身体の不調が症状として現れる「仮面うつ病」というのもあります。これは、本人がうつ病と自覚しにくい状況になりがちです。

作家や芸術家にも双極性障害を持っていた人は多くいたようです。代表的なのはゲーテでしょう。ゲーテの作品には、明らかに双極性障害の主人公が登場します。

「こころの科学 131」の中で、特におもしろかったのは、順天堂大学医学部の井原裕氏による『「激励禁忌」神話の終焉』です。

それによると、うつ病の患者には「激励」することが禁忌(絶対にしてはいけない)なのだそうです。励ますことによって、患者は過度の負担を感じ、自殺衝動を誘発しかけない、というのが日本の医学界では常識となっていて、医師国家試験にも出題されるようです。ところが、英語圏の医学書には、うつ病患者を励ますことが奨励されており、特に認知行動療法などの心理療法では、励ましは重要な意味を持つこととされています。「薬を飲めば大丈夫ですよ」というひと言すら、日本の医師は言えないのが現状だそうです。

うつ病患者は、心のどこかで、人からの支援、励ましを求め、待っているものです。励ましは「脅し」でも「過大な期待」でもありません。もちろん、言葉の使い方によるのですが…

精神科医療の限界と難しさを見たような気がしました。

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パワーハラスメント

 新聞報道によれば、千葉県の市立中学校で、一人の教師が自殺をしました。遺族が自殺の原因は、校長によるパワーハラスメントだとして、公務災害の認定を求めるそうです。

 パワーハラスメント(パワハラ)は、会社などで職権などのパワーを背景にし、本来の業務の範疇を超えて、継続的に、人格と尊厳を傷つける言動を行い、就労者の働く環境を悪化させる、あるいは雇用不安を与えること、というように定義されています。

 一般的には上司から部下に対して、権力を振りかざして人格攻撃を行なうことですが、専門的な知識を振りかざして、部下から上司へ、あるいは後輩から先輩へ行なわれる場合もあります。

 私自身も、以前にパワハラで悩み、精神的苦痛を受けたことがあります。その当時上司であった女性から、仕事でミスをすればもちろん、報告の仕方、言葉の使い方、態度など事細かなことまで、毎日怒鳴られる日々が続きました。そして残業・休日出勤を強要され、拒否するとまた怒鳴られました。女性の上司が男性の部下に対して怒る場合、周囲は部下の男性に非があるとみられがちです。

 私をかばってくれる人は一人もいませんでした。私は精神的不安から精神科を受診しました。ところがその上司は精神科にまで押しかけ、症状や治療内容など個人情報を聞き出そうとしました。

 結局、私はその職場を辞めることになり、現在の保育園に就職しました。上司は、現在某大学の教授になり、教材会社が主催する保育士研修の講師などもやっています。

 ここで思うことは、自分が正しいと信じて考えたり行動したり発言することは、本当に正しいかどうか、自問自答することが大切だということです。私を恫喝した上司は、それまでも数多くの部下を同じように脅迫して追い込み、退職させています。彼女はそれが正しい行動だと信じているのでしょう。

 しかし、正しいことかどうかは、自分だけではわからないものだと思います。正しいと信じてやったことが人を死に追い込んでしまっては、悲劇以外の何者でもありません。

 そして、人に対しては激情をぶつけるのではなく、いつでも冷静になりたいと、私自身心にとめておきたいと思います。

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腰痛と心の関係

 腰痛の具合が良くありません。同時に膝の痛みもひどい状態です。

 今回は、痛めてからすでに2週間程になります。

 周囲の方々から好意でいろいろな治療法を紹介していただきますが、いまひとつ受ける気がしません。

 もともと最初に腰痛になったのは18歳頃のことなので、かれこれ30年近いつき合いになります。その前に膝を痛めたのは12歳の時で、これはオスグート・シュラッテル病と診断されました。それ以来、腰と膝は爆弾を抱えた状態になり、年に一、二回は大きな痛みに襲われます。

 雨の日など湿気が多い日や、肉体的な疲労が大きい時は、慢性的な腰痛や膝痛が続くこともめずらしくありません。

 整形外科には何回か診察してもらったことがありますが、治療を続けても、返って痛みが増すことが多く、続きません。レントゲンのようすでは、腰はかなり悪いと言われました。

 ところが、以前に医療雑誌を読んでいたら、整形外科医でも、腰痛の原因を特定できないケースが非常に多くて、しかも年々増加傾向にある、という記事がありました。また、心理療法の世界では、身体の痛みは心のサインであるということはしばしば言われていることです。

 私も、気持ちがイライラしたり、落ち込んだり、悩みが深い時などは、腰や膝が痛くなったり、頭が痛くてたまらないことがあります。そんな時は、鎮痛剤を服用してもほとんどききめがありません。

 心と身体の痛みには、何らかの関連性があるのではないかと考えています。

 何か情報がありましたら、教えてください。

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外国の人とのつきあい

外国の人とのつきあい

 昨日の小泉首相の靖国神社参拝で、マスコミが賑わっています。

 賛否両論が入り乱れています。答えのない答えを求めて、果てしない議論が続いています。

 テレビや新聞の世論調査は、首相の靖国神社参拝賛成意見が反対を上回っていました。

 いろいろな分析ができるでしょうが、この国が全体として右傾化・保守化しているのは、間違いないようです。自分の殻の中に閉じこもるような、思考の硬さが感じられます。「他国に言われたからやめるというのはおかしい」というのが典型的でしょう。

 テレビの討論番組を見ていても、「靖国参拝に口を出すのは、アジアでも韓国と中国だけだ」と言う人もいました。本当でしょうか?

 私自身も含めて、外国の人とのつきあいが少ないと、それぞれの立場や考え方がわからず、結局殻の中に閉じこもって自分の意見を言うだけになってしまうのではないかと思います。

 政治にあまり期待できない以上、草の根、市民レベルでの外国との交流に、未来を期待したいと思いました。

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大阪・池田小学校児童殺害事件から五年

 大阪大学付属池田小学校で、侵入者による殺傷事件で児童8人が死亡、教師を含む15人が負傷した日から、今日で5年が経過しました。

 その事件の大きさと残虐さに、まだ記憶も新しく、あの日、報道を通して受けた衝撃が、昨日のことのように思い起こされます。

 犯人の元死刑囚は一審で控訴しなかったために、判決通り死刑が執行されました。いくら憎んでも足りないくらいですが、この死刑執行には一抹の疑問が残ります。

 それは、犯人がどのような心理状態で、なぜ犯行に及んだのか、完全に解明されないままで死刑にしたことは、はたして正しかったのだろうか、ということです。犯人の精神が病んでいたとしても、その病理、および心理を明らかにすることが、将来的な犯罪の防止に寄与するのではないかと思います。

 自分が殺害された遺族の立場に立たされれば、そのような悠長なことは言えないかもしれません。しかし、前例のない凶悪・残虐な事件だからこそ、真実の究明をもっと精細に行うべきではなかったのかと思います。

 犯人の死刑が執行されても、殺されてしまった子どもが帰って来るわけではありません。遺族の方々の無念と苦しみは、今もなお、さぞ辛いことだろうと思います。だからこそ、悲劇を二度とくり返さないための追求と方策が第三者の立場から行われるべきではないでしょうか。

 心理学の世界からは、まだ答えは出ていません。

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死刑について考える

 報道によれば、連続幼女殺害事件の宮崎被告が、死刑についてのメッセージを発していたことがわかりました。その中で、宮崎は死刑に対する恐怖と、絞首刑の廃止について言及しています。

 さて、この時に死刑のことを考えてしまいます。

 死刑が最高刑として制度化されている国は、世界の中では少数で、122か国が、法律上または事実上、死刑を廃止しているそうです。

 死刑廃止の是非についての論議の時に、必ず持ち出されることが「死刑抑止論」です。死をもって罪を償う制度があるから凶悪犯罪の抑止になる。また、死刑が無くなれば何をやっても死ぬことはない、と考える人が出てくるので死刑は必要、という考え方ですが、現実にはどうでしょう。

 秋田県で小学一年生の男の子が惨殺された事件が連日報道されていますが、最も「死刑を望まれやすい」子どもに対する殺人事件は後を絶ちません。

 つまり、死刑制度は、まったく犯罪の抑止にはなっていないのです。しかし、もし自分の肉親が殺されたりしたら、犯人を死刑にしてやりたいと私も思うかもしれません。

 しかし、それは「憎しみの連鎖」でしかないと思います。

 また、「冤罪」という問題もあります。過去、特に第二次大戦敗戦時までは罪なき人々が大勢殺されました。戦後も、もしかしたら冤罪によって死刑にされてしまった人がいるかもしれないのです。

 一度、死刑が執行されてしまうと、もう後戻りはできなくなってしまいます。

 かつて、名優チャールズ・チャップリンが映画「独裁者」の中で、「一人を殺せば死刑になるが、多数を殺せば英雄になれる」という言葉を思い出します。

 死刑制度について、私たちはもう一度考えてみるべきではないでしょうか。

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サッカーにみるスポーツのナショナリズム

 サッカーのワールドカップ・ドイツ大会の開幕が間近に迫っています。

 多くの人が、日本代表の活躍を祈り、大会期間中は日本国内でも大いに盛り上がることでしょう。このような平和の祭典において、自分の国の代表チームを応援することは、たとえナショナリズムであっても素直に認められるものだと思います。この時だけは日の丸にも誇りを感じます。

 しかし、サッカーの試合をめぐっては、過去に戦争が起きたり、いわゆる「フーリガン」という過激な応援団の問題などが外国ではあるようです。また、テロリストによる卑劣な行為にも用心しなければなりません。

 せめてサッカーくらいは、何とか平和に行われてほしいと思うのは、万人の願いではないでしょうか。私たちは素晴らしいプレーであれば、たとえ敵方の選手であっても拍手を贈ります。たとえ外国の人から「甘い」と非難されても、自国を応援するだけではなく、各国の熱戦を観て楽しみたいと思います。それは、本当にサッカーを愛する、素晴らしいことではないでしょうか。

 と偉そうに言っても、私はサッカーにそれほど詳しいわけではありません。ワールドカップが始まれば、にわかサポーターに早変わりするだけです。それでも、夢を与えてくれる私たちの代表を応援しようではありませんか。素晴らしい試合を期待しています。

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減らない自死者

 先日の新聞報道によれば、警視庁の調査で98年から7年連続で自死(自殺)者が3万人を超えました。厚生労働省の研究班が約1000件の自死(未遂を含む)について調査をしました。その結果、一度目で命を絶つ、計画的であることがわかったそうです。

 つまり、前ぶれもなく、確実に死ねる手段で死を選ぶ「覚悟の自死」が多いと言えるでしょう。

 記事の中で「自死者にうつ病の人が多く見られた」「うつ病は自死のハイリスク要因とされてきた」ということがありました。自死者の3~7割がうつ病との推計もあります。これは、いわば「常識」となりつつあります。

 しかし、「うつ病は投薬などで完治する」という記述は明らかに誤りです。最近の調査では、うつ病治療に世界中で使われているSSRIなどの抗うつ剤が自死願望を誘発する可能性が高いことがわかっています。また、日本ではカウンセリングなどによる患者の受け入れ態勢が十分でないために、認知行動療法などの治療ができないばかりか、精神科に受診していても自死してしまうケースが少なくありません。

 日本政府は、自死(自殺)の問題をもっと社会的なものとして認め、対策を立てる必要があるのではないでしょうか。

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健全な肉体とは? 健全なる精神とは?

 先日、プロ野球・阪神タイガースの金本選手が全イニング連続試合出場の新記録を達成しました。その試合のインタビューで(細かくは覚えていませんが)「健全な身体に生んでくれた両親に感謝します」と言っていました。

 私は金本選手は好きですし、何らケチをつけるつもりはありません。しかし、プロスポーツの選手には、よく両親に感謝する言葉として「丈夫な身体に生んでくれて…」ということを言います。

 では、もし丈夫でない身体だったとしても、それも両親の責任なのでしょうか?

 私は、天性の才能と努力を否定する訳ではありません。しかし、このような何気ない、悪意のない、他意のない言葉の中の潜む、人を傷つける針を感じてしまいます。

 身体や精神に障碍がある子どもの親は、いつも、どんな時でも自責の念にかられています。障碍を持って生まれたのは、私たち親の責任ではないだろうかと… ですから、子どもには常に心の中で謝り続けます。たとえ障碍がなくても、親のことを責める子どもは大勢います。親子関係が複雑に崩壊しつつある現代において、「丈夫な身体に生んでくれて…」というメッセージは、ある意味虚しさを感じます。

 障碍については、本当のところはわからないのです。本当に親が悪いかどうかは、誰にも判断できません。しかし、例えば「健全な精神は健全な肉体に宿る」というスポーツ精神も、私は強い疑いを持ちます。

 それでは、身体に障碍がある人には正しい精神がないのでしょうか? 精神に障碍がある人の肉体は欠陥なのでしょうか?

 何気ない言葉が、人を傷つけることがあります。そのことを少なくてもマスコミで発言する人は考えるべきだと思います。

 そして、たとえ身体に障碍があっても、精神に障碍があっても、両方に障碍があっても、それを補いながら必死に生きている人が社会にはたくさんいるのです。そのことを少しでも、考えてみましょう。

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自殺を防ぐことはできるのか?

 14日付東京新聞の社会面に、自殺に関する記事が四つ掲載されていました。

 その1。「自殺対策基本法(仮称)」の制定を求めて自殺者の遺族や遺児らが全国七か所でチラシ配布や街頭署名を始めた。基本法は国の責務や総合対策の推進、遺族ケアを盛り込んだものになる。

 その2。企業で働く産業医の七割が、従業員から自殺をうかがわせる相談を受けていることが調査でわかった。多くの事業所ではメンタルヘルス対策に苦慮している。最大の理由は「マンパワーの不足」とのこと。

 その3。日本でも広く使用されている抗うつ剤「パキシル」を服用した20代を中心とする若いうつ病患者に、自殺を試みる行動が増える傾向があることがわかり、米食品医薬局(FDA)が医師に対し服用者の慎重な観察を求める警告を発表した。

 その4。川崎で起きた男児投げ落とし事件で、犯人の男性が犯行直前に自殺未遂を繰り返していたり、うつ病で入院していたというルポルタージュ記事。

 年間三万人以上、一日82人以上の人が、自ら死を選んでいます。先進国では日本だけが突出した数となっています。自殺とうつ病との関係も以前から指摘されてきました。うつ病になった人の多くが自殺を考えるとも言われています。しかも、上記の記事にあるように、うつ病の治療として広く使われている「パキシル」という薬を服用すると自殺衝動が高くなる、ということも近年言われ始めたことです。これでは、精神科医の診察・治療も信用できなくなってしまいます。

 わたしは、かつてうつ病がひどかった時期に、医師から処方されたパキシルを服用していました。二、三週間は服用しないと効果はでないと薬剤師から言われ、数ヶ月間服用しました。ひどい眠けと、自殺の衝動性(具体的には、鉄道の駅のホームに立つと、「とび込んじゃえ! 楽になろうよ!」という、もうひとりの自分の声が聞こえ、怖くなって駅や道路に近づくことができなくなりました)が高まったことを覚えています。

 自殺を予防するための対策に決定打は、いまだないように思います。生活経済とのかかわりも指摘されています。一国の総理が格差社会を承認する日本では、「自殺するのも仕方がない」と言われているようなものです。いま、この瞬間にも、死に向かっている人が国内にいるのかと思うと、気が重くなります。

 国家や役所が立ち上がらない以上、私たち市民が自殺のない社会をめざして行動しなければならない時が来ているように思います。

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保護者会

 今日は、私の担任するクラスの保護者会が開かれました。

 新年度の始まりで、どこの学校、保育園、幼稚園でも保護者会のシーズンではないかと思います。実は、保護者会は私たちにとって大きなイベントでもあります。保護者会をどう乗り切るかは、非常に重要な課題なのです。小学校の教員向けには、保護者会をうまく運営するためのマニュアル本があるくらいです。

 今回、保護者会の準備をするにあたって、私たち保育士スタッフの中で話題になったことがありました。それは、保護者会の中で、お父さん、お母さんに一人ずつ話をしていただくことをやるかどうか、ということです。

 保護者の中には、時としてとてもお話好きの方がいます。話し始めると止まらなくなるタイプです。また、保育園の批判を堂々と展開する方もまれにいます。そういう事態があらかじめ予想されると、私たちの側としては、一人ずつ話すことにためらいがでます。また、一人ずつ話すと、それだけ時間がかかることも、限られた時間の中で会を運営する上で支障になる場合があります。

 私は、今回クラスに新入園児もいなかったので、予定では一人ずつ話すことはしないつもりでした。

 しかし、実際に保護者会が始まって、お母さん方の様子を見ているうちに気が変わってしまいました。最後にひとりずつ話していただき、終了の時間も20分ほどオーバーしてしまいました。

 話したいとか、話したくない、ということではなく、保護者や職員が集まる「保護者会」という場で、ご自分のお子さんのことを語ることは、とても大切だと思いました。それは、話すことによって、他のお母さんに情報を提供することになりますし、自分の子育てをふり返ることにもなります。

 実際、お母さん方ひとりひとりに話していただいて、本当に良かったと思っています。お母さんが抱える悩みや苦しさ、喜び、戸惑いなどの一端が見えたからです。本来は、お母さんのその語りに一人ずつ応対していくことが必要なのですが、時間の都合上できませんでした。これは今後のクラス運営の中での課題です。

 今日の保護者会をきっかけにして、これからの一年間、私たち保育士と保護者である親のみなさんとが、良いコミュニケーションをとり続けることを目標に、日々努力を積み重ねていきたいと思います。

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相手の立場を考える ―心の理論

 昨日、保育園最後の日を迎えた年長組の子どもたちが、朝から「今日の夜はカラオケに行くんだよ!」と大騒ぎしていました。どうやら、卒園する親子たちで「打ち上げパーティー」でもやるようです。

 しかし、よくよく聞いてみると、年長組の全部の親子に声がかかって開かれるのではなく、一部の親しいグループで行われるようでした。子どもたちの中には、「私の家はたぶん行かないと思う。だって知らないもん」と、つまらなそうに言う子もいました。

 そこで、「カラオケ! カラオケ!」とはしゃいでいるひとりの女の子に、「行かない子もいるようだから、あまり言わない方がいいよ」と私は言いました。ところが、女の子は「どうして? だって楽しみなんだもん」と言いました。

 ここで、カラオケ・パーティーを楽しみにしている女の子たちを責めるのは間違っています。これから始まることへの楽しさのあまり、声がかかっていない、行けない子たちのことなど考える余裕はないのです。

 相手の立場に立って物事を考える能力は、だいたい5、6歳には身について来ると言われています。しかし、うれしくてあまりに気持ちが高ぶってしまうと、相手の立場など考える余裕はなくなってしまいます。

 しかし、これは、子どもだけの問題ではなく、私たち大人でもよくあることではないでしょうか?

 私たちは、知らぬ間に、相手の気持ちを考えずに、相手の心を傷つけてしまうことがあると思います。そのために、人間関係がうまくいかなくなることなど、山ほどあると言っていいでしょう。

 何でも思ったことを言っていいんだよ、などと言われるようになって、相手を平気で傷つける言葉をはいたり、相手をけなすことで偉そうにしている人があちこちにいるように思われます。特にテレビに登場する占い師とか、不良ぶった学園ドラマなど、それがカッコいいなどと正当化される時代になってしまいました。

 もう一度考えてみませんか?

 自己主張と相手の立場に立つことは両立できるはずです。

 一方的に、暴力的に自分を主張する前に、相手の心を考えて、相手の立場に立ってみませんか?

 客観的な立場に立つ思考を「心の理論」とも呼ぶことがあります。私は、もう一度、心の理論を学んでみる気持ちになりました。

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「まわりの子が悪い」という心理

滋賀県長浜市で起きた幼稚園児二人が殺害された事件は、犯人が同じ幼稚園児の母親ということでさまざまな波紋をよんでいます。

19日の新聞記事によると、犯人の供述として次のように書かれていました。

「自分の子どもがほかの子どもとの会話に加わらず、なじめないと思った。このままでは自分の子どもが駄目になるので殺した」

「なじめない理由は、ほかの子どもが悪い。一番身近な子どもがいなくなればいいと思った」

まだまだ捜査や取り調べが続くので、今後新たなことが明るみにでるかもしれませんが、この時点での問題点をあげてみます。

まず、自分の子どもがなじめない、という供述。犯人は中国籍で日本語がうまく話せないこともあったようですが、そのために他の母親となじめないことがあったようです。これは外国人に限ったことではありません。地域になじめない、学校になじめない、会社になじめない、社会になじめない… このように周囲に違和感を感じる人は、今とても多いのではないかと思います。

私が勤務する保育園の前にある道路は、毎日十数台の幼稚園バスが通ります。あちこちのバスが停まる場所では毎朝お母さん方の輪ができています。時には子どもがバスに乗って行ってしまった後でも、延々と立ち話をしている光景を見ることがあります。

このように、お母さん同士のコミュニケーションは日常的に行なわれているのですが、これを負担と感じてしまうと、とてもやりにくくなってしまうでしょう。話が上手下手もありますが、相手のお母さんたちとの相性みたいなものもあると思います。

そして「なじめない理由は他の子が悪い」という、他人悪玉論。いま何でも他人のせいにする風潮が世の中にはあるように思います。自分、という領域を侵されたくない、ということからかもしれませんが、どんなことでも他人が悪い、社会が悪い、政治が悪い… というように他者への攻撃的な論理や主張がいろいろなところで展開されているような気がします。

自分を省みる、という言葉はすでに死語になってしまったのでしょうか?

さらに最も問題なのは、それらの理由だけで「殺してしまう」ことです。殺人が非常に日常的になりつつあります。本来、周囲になじめない、他人が悪いと思っても、では自分はどうしたらいいのだろうか? と悩むところだと思います。それが、いろいろ過程はあったかもしれませんが、結果として殺人に走ってしまう。この恐ろしさが異常とは言えなくなりつつあるのが現代社会なのでしょうか?

子どもに大人気のアニメに「名探偵コナン」があります。コナンは毎週殺人事件を名推理で解決していきます。ということは、コナンは毎週殺害された死体を見ていることになります。また、たかがアニメかもしれませんが、それを夢中になって見ている子どもたちが「殺人」という出来事が日常的当たり前になった感覚を持つことが、私はとても恐ろしいと思います。

この事件によって、外国人に対する偏見が高まらないことを祈ります。

そして、幼くして、理由もよくわからないまま亡くなった二人の子の冥福を祈ります。

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受験シーズンに思う

受験のシーズンです。明日からは私立中学校の入試が本格的に始まります。

私のまわりにも、お子さんが受験する方がおおぜいいます。心配で仕事に手がつかないお父さん、お母さんが右往左往しています。

先日もニュース番組で過熱する中学受験のレポートが放送されました。少子化にもかかわらず、中高一貫校を中心に、受験する子どもの数は過熱する一方だそうです。毎日の塾通い、父親は送り迎え、母親は弁当を届ける。今時の受験は、経済的にもかなりのエネルギーを必要としています。

番組では、授業内容の削減など「ゆとり教育」に対する批判が、公立校への不振となり、私立校への受験が増えている、という構図があるようだ、と述べていました。

加えて、最近、公立校も中高一貫校を次々とつくり、これがまた難関校になっているそうです。

有名校、難関校へ進む子どもたちのごく一握りは、将来日本の政界・経済界の中心的な存在になるのでしょうから、この問題にあまり関係ない人々も、まったく違う世界の話ですまされることはないと思います。

しかし、このように、子どもをどんどんと、流行の言葉で言えば「勝ち組」「負け組」(それも長い目で評価すれば、ほとんどの子どもは「負け組」)に選別するのは、はたして良いことなのでしょうか。このレールの先には、単なる「拝金主義」が待っているだけなのではないでしょうか。「金さえあれば、何でも手に入る」という生活スタイルだけが現代の世の正義なのでしょうか。

私は、普通の、一般の公立校が、「勝ち組選抜学校」とは違うレールに乗った、新しい方向性を示してほしいと考えています。経済的に進学したくても思うようにできない環境の子どもも、まだまだたくさんいるからこそ、私は普通の公立校に対する希望を捨てられないのです。

先に紹介した和久洋三さんの提唱する「創造共育」などは、子どもを選別しない平和で平等な環境を与えてくれると思います(これについては、また別の日に述べることにしましょう)。

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コンステレーション

コンステレーション

もともとは「星座」という意味です。

私たちは夜空の星々を線でむすび、それに絵を与え、星座として、さまざまな名前をつけています。

たとえば冬の代表的な星座であるオリオン座の三つ星は、私たちの目には平面的に並んで見えます。しかし、実はそれぞれの星が地球からまったく距離の違う、遠く離れた宇宙に位置しています。

このように、もともとは何の関係もないもののように見えることが、実は深い意味があり、関係性が見出されることを「コンステレーション」と言います。

例えば、職場で働く人同士は、そもそもは何のつながりもありません。しかし、そこで生まれるさまざまな人間関係が、自分の人生に深く影響するとすれば、それは「コンステレーション」と言えるでしょう。

もともとは、ユング心理学に基づく心理療法の中での用語ですが、私たちの生活、そして人生そのものが「コンステレーション」の連続ではないかと思います。

家族も、もしかしたら「コンステレーション」かもしれません。

「子どもは親を選べない」と言いますが、世界がいくつもの層を成していると仮定すると、確かにこのお父さんとお母さんを選んで子どもは生まれて来たのかもしれません。夫婦の関係、親子の関係、それぞれが破綻すると、星座は消滅し、ただの星くずになってしまいます。

ここまで読んでいただき、コンステレーションを感じられたことはありませんか?

私は保育園で働いていますが、そこで生活する子どもたちも、ひとりひとりが星座の星のひとつとしてつながっています。そして、私自身も、その星座の星のひとつでありたいと常日頃思っています。

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「あなたに会えてよかった」―cousin―

 ふたりで初めて来たね

 山手通りのレストラン

 話す言葉を探して

 メニューばかり見ていたね

 曇りガラスに書いた

 「アイシテル」の文字の向こう

 降りだした雪もふたりを 祝ってる

 「あなたに会えてよかった」

 10年後も言っていたいね

 これからも もっともっと

 私のこと 僕のこと 話してゆこう

   (「あなたに会えてよかった」 唄 cousin)

******

「あなたに会えてよかった」は、恋人同士のうたです。

友だち、家族、そして愛する人、本当に「あなたに会えてよかった」という人は、自分自身にとっているのでしょうか?

こんな、当たり前のようなことを何十回、何百回と自問し続けることがあります。

    あなたに会えてよかった

    ホントによかった

こう言える人がいることの幸せに、私は飢えているのかもしれません。

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連続幼女殺害事件 ―私たちは被害者の女の子たちを忘れない

1988年から89年にかけて、埼玉県と東京都で幼い少女四人が殺害された連続誘拐殺人事件の最高裁判決が昨日だされました。上告は棄却され、被告の死刑が確定しました。

この事件は猟奇的、そして異様な犯行で、その後、神戸の連続児童殺傷事件、大阪・池田小学校の殺傷事件、奈良の少女殺害事件、そしていまだ未解決の栃木県今市市の小学生殺害事件など、数多くの特異事件の始まりとも言える、日本の社会に対して大きな挑戦を投げつけた、と言えるでしょう。

今日、たまたま複数の新聞を読む機会がありました。「不可解な心 解けず(毎日)」、「『なぜ』わからぬまま(朝日)」、「複雑な心理 解明至らず(讀賣)」、「それでも残る『なぜ?』(東京)」など、各紙とも、裁判を通して被告の犯罪に至った心の解明ができなかったことを大きく取り上げていました。

その中で、日本経済新聞は、立正大学・小宮信夫助教授(犯罪心理学)のコメントとして以下のように掲載しました(一部を抜粋)。

犯罪の原因を追究し、それを除去しようとする「犯罪原因論」には限界がある。犯行に都合の悪い状況を作り、機会を与えないことで防止を図る「機会論」にシフトすべきだ。

校門の外は保護者の責任、と学校はいまだに責任回避していないでしょうか?

歪んだ人格を持つ人は、家庭環境、親の育て方が問題と一方的に押し付けていないでしょうか?

私たちは「おたく」や「萌え」というイマドキの風潮を対岸の出来事のように笑い、この事件をわかったつもりになっていないでしょうか?

その後も続く幼い子どもを標的にした事件。いつまでも「自分の世界とは関係ない」「悪いことは忘れよう」と思い込み続ける消極的・閉鎖的な社会的感情が、犯罪を野放しにしているのではないでしょうか。

私たちは被害あったすべての子どものことを忘れてはいけません。

そして、これから何ができるのかを考え、実行しなければならないでしょう。

もう、ひとりも被害者を出してはいけません。

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歌は世につれ ―心に残る音楽

先日、テレビを観ていたら、心の中で大好きな音楽や歌を奏でると、脳の前頭葉(ヒトの思考をつかさどる主要な部分)の血流が増加する、という話がありました。難病で会話や身体を動かすことが困難な人のコミュニケーション手段として、心で音楽を奏でることによる、脳の動きの変化を利用する方法が研究されているそうです。

さて、誰でも、心に残る音楽があり、好みのアーティストがいるのではないかと思います。

不思議なことに、音楽は、心を癒し、心弾ませ、時には大きな力を私たちに与えてくれます。

あなたの好きな音楽はなんですか? おしえてください。

あなたの好きなアーティストはだれですか? おしえてください。

音楽のジャンルに上下はありません。好きな音楽が、好きなアーティストが、その人にとって、いちばんの音楽なのです。

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数年前に、私はちょっとした心の風邪をひきました(その時の体験は追い追いこのブログで話すことになると思います)。その時、それまで大好きだった音楽が、まったく聴けない状態になりました。何を聴いても、何も感じなかったのです。いま振り返ると、それはとても悲しい状態でした。人間として楽しみも、喜びも感じないのは、死にも匹敵すると言えるでしょう。

しかし、今も大きくブレ続ける私の心を立ち直らせてくれるキッカケをくれたのは、…やはり音楽でした。

それは、私が風邪をひくずっと前から活動を行ない、今でも続けている二人のアーティストです。この二人についても、追い追い語りたいと思います。

そして、いつかありがとう、と言いたいです。

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