オリンピックへの失望感

子どもの頃は、オリンピックに対する期待と高揚感があったことを覚えています。

最も古い記憶は、1964年の東京オリンピックでした。その後、1968年のメキシコ大会を経て、1972年にはドイツのミュンヘンで開催されました。

ミュンヘンオリンピックの当時、私は中学生でバレーボールをやっていました。日本の男子チームが全盛期を迎え、今では信じられないことですが、みごとに金メダルをとりました。準決勝の「ブルガリア戦の大逆転」などは、夜中までテレビの前にクギ付けになって観たものです。当時世界一速いと言われた森田選手のドライブサーブをまねしたり、嶋岡選手のサーブを研究したものです。

娯楽が少なかったと言えばそれまでですが、4年に一回のオリンピックは、スポーツ少年にとって、大きな祭典でした。

その後、1976年のモントリオール大会では、体操のコマネチ選手が活躍しました。

しかし、華やかな裏では、オリンピックは確実に政治と戦争によって崩壊への道を歩んでいたしのです。

72年のミュンヘン大会ではパレスチナゲリラによるイスラエル選手団の虐殺事件が起き、モントリオール大会では台湾の参加が中国の政治的圧力によって取り消され、80年のモスクワ大会はソビエトのアフガニスタン侵攻に抗議して、日本を含む西側諸国が参加をボイコットしました。その後もオリンピックと政治は深く根が絡み合って現在に至っています。

そして、今回の北京大会を前にして、チベット問題が世界から注目されています。聖火リレーへの抗議の妨害行動、それを阻む大警備陣、ナショナリズムまる出しの中国人たち。

オリンピックに政治を持ち込んではいけない、とよく言いますが、政治の方が勝手にどんどん踏み込んでしまっているのが事実です。

オリンピックを国威発揚の場とし、民衆のナショナリズムを喚起させ、外国の意見にはまったく耳を貸さない、という国の姿は、ナチスドイツによって開催された1936年のベルリンオリンピックを思い出させます。

もう、オリンピックに対する想いは虚しくなってしまいました。東京で再びオリンピックを開催する意味もないと思います。国と国が競うことは、マイナスばかりではないかもしれませんが、政治や戦争とセットになっている以上、もうやめた方がいいと思います。

愚かなオリンピックには興味がありません。むしろ、嫌悪感を覚えます。

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障碍者は社会の敵になるのか

1日イラクの首都バクダッドの2か所の市場で同日に爆弾テロが起き、あわせて死者72名、負傷150名という大惨事になりました。

イラク軍報道官によれば、いずれのテロも、何者かが知的障碍のある女性二人の身体に巻きつけた爆発物を遠隔操作で爆発させたことが原因であると発表しました。
これが事実であれば、これほど極悪非道な出来事はないのではないかと思います。
イラクでは、これまでも女性による自爆テロがありましたが、障碍者を使うという新たなやり方は、強い憤りを感じます。

詳細はわかりませんが、テロに利用された知的障碍の女性には、本人の肉親あるいは教師などの信頼を寄せる人物が関わっていたことが推測されます。
なぜなら、知的障碍があるからと言って見ず知らずの人の言うことを聞いてその通りに行動する、ということは考えられません。

障碍のある人ほど、信頼している、愛している人でなければ命令に従うようなことはありません。
加えて、テロリストの首謀者たちがイスラムの若者に対して説くように「死ねば極楽に行って、何でも好きなことができる」というような類いの話に乗るとも思えません。
この事件の背後には、障碍者の身近な人がテロを支援している、と考えるのが妥当でしょう。

障碍者をぼうとくする社会は、必ず崩壊します。

なぜなら、すべての障碍児・者は、いつの時代、どこの世界にも存在します。障碍は本人の責任ではなく、社会の責任なのです。誰も障碍を背負って生まれたい、生きたいという人はいません。

しかし、人は障碍を受け入れる、受容することができます。障碍を単なる「負」ではなく、人間の生き方のひとつとして受け入れることができるのです。当事者やその家族でないとわからないことかもしれませんが、障碍があることで新たな人生の生きがいを得ることもできるのです。

したがって、社会は障碍児・者の生活を保障する義務があります。
社会を構成するのは、ひとりひとりの市民です。
その市民を虐殺するために障碍者が利用されるのであれば、障碍者は排除されることになりかねません。

これは対岸の火事かもしれませんが、日本の社会においても、暴力団がらみの犯罪に障碍者が利用されているという話を聞くことがあります。刑務所における障碍者の比率は非常に高いとも言われています。

弱者を弱いモノ、低いモノ、として扱うことがどれほど愚かなことか、私たちは考えてみる必要があると思います。

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9.11同時多発テロから6年

アメリカの同時多発テロから今日で6年。

この6年間は何だったのでしょうか。

終わりが見えないイラク、アフガニスタンの内戦状態。

毎日とびこんで来る「自爆テロ」のニュース。そのたびに、10人単位で尊い人の生命が奪われる。

劣化ウラン弾の後遺症に苦しむ子どもたち。迫り来る死の恐怖。

極限の状態から遠く離れた日本では、「国際貢献」という名のもとに、アメリカ軍の支援活動延長のための審議を「のん気」に始めようとしています。

国際紛争の解決の手段としての戦争がなくなることは、今の世界情勢からは考えられないことかもしれません。だから日本の憲法を改正して、自衛隊を正規の「自衛軍」にして、いつでも戦争ができるようにするべきだ、と考えている人が割とたくさんいるようです。

「人間の死」が、これほど軽くなってしまったのはなぜでしょうか。

たとえ人には「前世」があり、生まれ変わりがあったとしても、生命を軽く考えることには大反対です。戦争は人の生命を紙切れよりも軽くしてしまいます。そのことを今日考えてみました。

テロを終結させるための戦闘行為は無意味ではないか…

このことを一緒に考えてくれる方がいませんか。

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ビキニ・デー

1954年3月1日、第五福竜丸はマーシャル諸島近海において操業中に、ビキニ環礁で行われたアメリカによる水爆実験に遭遇し、船体・船員・捕獲した魚類が放射性降下物(いわゆる死の灰)に被爆しました。実験当時、第五福竜丸はアメリカが設定した危険水域外で操業をしていました。

実験で使用された水爆は、広島型原爆の1000倍の威力を持っていました。この時に放射性降下物で被爆した船は数百隻、被爆者は2万人を越えると言われています。

第五福竜丸の船員23名全員が被爆しましたが、無線長の久保山愛吉さんが半年後に急性放射能症で死亡しました。

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「世界大戦争」


「世界大戦争」

製作:藤本 真澄/田中 友幸

監督:松林 宗恵

特技監督:円谷 英二

出演:フランキー堺/宝田 明/星 由里子/乙羽 信子/白川 由美/笠智 衆/ジェリー伊藤/東野 英治郎/山村 聡/上原 謙/他

1961年製作・公開

東宝映画

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世界の終末戦争を描いた日本の映画作品です。円谷英二氏のファンであれば、弾道弾ミサイル基地や核爆発のリアリティある特撮として、かなり有名なのではないかと思います。特にラストの核兵器による世界各都市の破壊シーンは圧巻です。

しかし、実際に映画を観てみると、プレスクラブの運転手・田村茂吉(フランキー堺)を中心とした、庶民の生活が中心の人間ドラマが展開されています。監督が、特撮を使いながらも、人間の心、人間の愛を大切に表現していることが強く感じられます。

戦後の混乱期から裸一貫でがんばってきた茂吉と妻のお由(乙羽信子)。茂吉の娘・冴子(星由里子)と婚約者で貨物船の通信技師・高野(宝田明)。貨物船のコック長・長江原(笠智衆)と娘で保育士の早苗(白川由美)。そこには、ごくありきたりな昭和30年代の庶民の生活が描かれています。

第二次世界大戦が終結してから十数年経過し、都市はすっかり復興しました。しかし、庶民の生活は、まだまだ貧しいものでした。その一端が保育園の場面の中にも見ることができます。子どもを預けて住み込みで働きに出る母親。寂しいのをじっとがまんする子どもの目… 貧しいながらにも、その中には幸せがあった時代ではないかと思います。

同時に世界情勢は緊迫し、連邦国側と同盟国側が対立を深めます(この設定がアメリカの西側とソビエトの東側を表しているのですが、いまひとつリアリティに欠けている面があり、この作品の弱いところかもしれません)。

世界平和を希求する日本政府は、首相(山村 聡)を中心に、懸命な外交努力を続けます。

しかし、その願いもむなしく、核ミサイルの最終ボタンは押されてしまいます…

核爆発の洗礼を受けるニューヨーク、ロンドン、パリ、モスクワ、そして東京…

この映画が製作された1961年は、東西冷戦の緊迫した情勢が続き、核兵器の軍拡競争は加速し、いつ世界が破滅してもおかしくない時代でした。それだけに、人々の生活が一瞬にして破壊されてしまう映像が、とても衝撃的でした。

私たちの気持ちは今でも変わりありません。

戦争によって、何もかもが破壊されてしまうのであれば、そうならないような努力が必要なのです。この映画の中で日本は連邦国側に所属していたために、東京が核攻撃にさらされました。集団的自衛権の行使は、このようなリスクも背負うことになるのです。

相手が軍備を拡大するから、こちらもそれに対抗する軍備を持つ。―この思考から脱出することが、今いちばん必要なのではないでしょうか。昨今の北朝鮮の核配備問題に対する政治家の見解を聞くと、軍備増強の理由づけになり、ずるずると戦争への道を進んで行くような気がします。

平和な世界を構築する使命を持つ国が日本であるならば、この映画をぜひ観てほしいと思います。そして、一緒に考えてほしいです。

何をすべきなのか…

何をやめるべきなのか…

平和を求め、愛することを…

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北朝鮮の核実験

 報道によれば、北朝鮮は、今日核実験を行なったそうです。

 また、「核クラブ」のメンバーが増えました。

 人間は、一度、核兵器によって滅んでみないと、平和の意味がわからないようです。核兵器を持つことが国際社会での地位を確保すると、本気で思い込んでいる国が、あといくつあるのでしょうか。核の保有国が増えることによって、人類の絶滅がまた一歩近づくことが、政治家はわからないのでしょうか。

 今日のニュースを見て、無力感しか感じませんでした。

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チャスラフスカを知っていますか?

チャスラフスカを知っていますか?

「ベラ・チャスラフスカ 最も美しく」

後藤 正治 著

2004年 文藝春秋 刊

2006年 文春文庫

 ベラ・チャスラフスカ。旧チェコスロバキアの体操選手。

 1964年、東京オリンピックにおいて、女子体操個人総合金メダリスト。当時、オリンピックの華として、外国人選手の中では圧倒的な人気を得た選手です。

 私もうっすらと記憶に残っていますが、子ども心に、とても美しい人だったということは覚えています。

Korubuto

 女子体操は、1972年ミュンヘン・オリンピックにおいて、個人総合のメダルは逃したものの、床体操で愛くるしい演技を見せ、一躍人気者となったオルガ・コルブト(旧ソ連)以降、低年齢化が進み、美よりも技を追求することになります。正確には、コルブトが登場する少し前に活躍していたニーナ・ドロノワ(ソ連)が当時12,3歳でナショナル・チームに入ったことが始まりだと思います。

Nadia

 そして、その頂点は、何といっても、1976年モントリオール・オリンピックで10点満点を次々と出したナディア・コマネチ(ルーマニア)でしょう。

 現在の女子体操は、オリンピックの出場資格に年齢制限が設けられ、再び美と技の調和をめざしているようです。

 かつての体操の女王、ベラ・チャスラフスカは、美しさと技のバランスがとれた、体操史上最高の選手だったと言えるでしょう。

 そして、彼女は東京大会から四年後、1968年のメキシコ・オリンピックにも出場して、再び女子個人総合で金メダルを獲得します。その年、ワルシャワ条約機構軍がチェコスロバキアに侵入し、市民を弾圧する内乱が起きました。チャスラフスカは、抗議の意味を込めて、黒いユニホームを着て演技にのぞみました。

 彼女の人生は決して恵まれた、幸せばかりが続くものではありませんでした。

 メダルを争う体操選手の多くは、日本を除いては、旧ソ連、東欧諸国がほとんどです。1980年代後半から起きた社会主義国家体制の崩壊は、体操選手も含めて、数多くの人たちに波乱の人生を歩ませることになりました。

 ナディア・コマネチは、革命が起こる寸前に、森を歩き、国境を脱出し、アメリカへ亡命しました。

 国家財政の破綻によって、ナショナルチームのコーチなど、要職を追われた元選手もたくさんいたようです。

 そして、国家による統制に反発して、引退後は、長年貧しい生活を強いられてきたチャスラフスカは、国家体制の変革によって、再び表舞台に出ることになります。大統領顧問、チェコオリンピック委員会会長、そしてIOC委員…

 しかし、近年、ベラ・チャスラフスカは、家族の悲劇的な事件がもとで、重いうつ病になり、病院でひっそりとした生活を送っているそうです。私はこの事実を読んだ時、とてもショックでした。すでに60代になっている彼女ですが、私の中では、いつまでも美しいアスリートのままです。

 人の人生は、何が起きるかわかりません。

 しかし、ベラ・チャスラフスカのように、自分を信じて、自分から道を選んで進むことが、きっと正しいことなんだ、と心から思います。

 一日も早く、彼女が病を克服し、大好きだったという日本にも再び訪れることを願うばかりです。

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同時多発テロから5年

 今日は、アメリカの同時多発テロから五年目を迎えました。

「テロの根絶のため、誓いを新たに…」などと新聞には書かれていました。確かにテロ攻撃は、罪のない人々を巻き込み、一瞬のうちに悲劇を呼びこむものとして、一分たりとも容認するわけにはいきません。

 しかし、テロに対してそれを上回る武力で押さえつけようとしたアメリカ・イギリスの思惑は成功したでしょうか。

 アフガニスタン、イラクの戦争は泥沼化しています。果てしなく続く闘いの先に、平和の光は見えて来ません。自衛隊のイラク派遣は、死傷者が出ることなく終了した、ということだけで、本当に有益であったかどうかはわかりません。

 なぜテロが起きるのか? なぜ自爆してまで殺戮を繰り返すのか?

 このあたりの、根本的な問題が解決されなければ、いくら劣化ウラン弾を打ち込んでも、ますます双方の死傷者が増えるだけでしょう。

 最近の新聞報道で、アメリカ国内世論では、同時多発テロ「陰謀説」が言われているそうです。これは、アメリカ政府が事前にテロ攻撃計画を察知しながら、わざと見逃して、アフガン、イラク戦争の口実をつくるものだった、という説です。

 こうなって来ると、単純に平和だ、戦争だ、と言っているわけにはいかなくなってしまいます。何を信じていいのかわかりません。ハイジャックされた航空機2機が突入し、倒壊した世界貿易センタービルの跡地は、「グラウンド・ゼロ」と呼ばれているそうです。

 しかし、61年前、広島・長崎の市街を破壊し、多くの人を殺戮し、グラウンド・ゼロを生み出した当事者は、アメリカ自身だったのです。

 軍事力の行使される先には、何も見えて来ません。

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外国の人とのつきあい

外国の人とのつきあい

 昨日の小泉首相の靖国神社参拝で、マスコミが賑わっています。

 賛否両論が入り乱れています。答えのない答えを求めて、果てしない議論が続いています。

 テレビや新聞の世論調査は、首相の靖国神社参拝賛成意見が反対を上回っていました。

 いろいろな分析ができるでしょうが、この国が全体として右傾化・保守化しているのは、間違いないようです。自分の殻の中に閉じこもるような、思考の硬さが感じられます。「他国に言われたからやめるというのはおかしい」というのが典型的でしょう。

 テレビの討論番組を見ていても、「靖国参拝に口を出すのは、アジアでも韓国と中国だけだ」と言う人もいました。本当でしょうか?

 私自身も含めて、外国の人とのつきあいが少ないと、それぞれの立場や考え方がわからず、結局殻の中に閉じこもって自分の意見を言うだけになってしまうのではないかと思います。

 政治にあまり期待できない以上、草の根、市民レベルでの外国との交流に、未来を期待したいと思いました。

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憎しみと殺戮の連鎖 ―イスラエルの無差別爆撃

 イスラエル軍による、レバノン南部の都市カナへの空爆は、市民60人以上が死亡し、無差別な虐殺として国際世論からの批判が高まっています。罪のない子どもたちも多数死傷しています。

 国連安全保障理事会議長による非難声明も、まったくの無意味です。停戦協議も進まず、空爆が止まれば、今度は地上軍による攻撃が行われています。

 武器による攻撃の応酬、憎しみの連鎖、次々と死んでいく子どもたち…

 なぜも、ここまで、人間は愚かなことを繰り返すのでしょうか。

******

 さて、地球の裏側、日本での反応はどうでしょうか?

 だいたい、イスラエルとか、レバノンがどこにあるのかもわからない人が多いのではないでしょうか。

 日本人の多くが(ジャーナリストも含めて)、中東地域のイスラエル、パレスチナ、レバノン、その他のアラブ諸国での関係、歴史、因果関係について、正しく説明できる人はいないのではないでしょうか。

 それほど事態は複雑だ、と言ってしまえばそれまでですが、イラク問題と同じように、「対岸の火事」程度にしか感じていないと思います。

 今日から8月。日本人にとっては、過去の悲惨な歴史を振り返る機会を持つ時間を設ける月ではないでしょうか。そして、世界から憎しみと殺戮が消滅するためにはどうすればいいのかを考える時ではないかと思います。

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陸上自衛隊、イラクから完全撤退 ―復興支援とは何なのか?

 陸上自衛隊の最後の部隊が日本に到着して、イラクからの撤退を終了しました。航空自衛隊は物資輸送の任務を現地で続行しています。

 戦争に加担することは、巨額の経済支出を無条件で認めることになります。いわば「無謀な公共事業」と言えるかもしれません。

 今回の自衛隊派遣は、戦後、戦争地域に入った最初の事例になってしまいました。現在のイラク情勢を見れば、テロと暴動の繰り返しで、内戦状態になっていることは、中学生でもわかることです。

 そこへ行って、自衛隊はどんなことをしたのでしょうか? ニュースや新聞でもよくわからない部分です。

 そもそも、最新兵器の実験場かのように、イラク市街を無差別攻撃して、多数の市民・子どもを殺戮しておいて、その後に入り込み、復興支援とはまったく意味がわかりません。最初から破壊と殺人を行わなければ、復興などということはなかったからです。

 自衛隊の方々、日本政府の偉い方々は、ひとりの死者もなく撤退できたことに、喜びと誇りを持っていることでしょう。もちろん、日本人の自衛隊員の命も大切です。しかし、同じくらい大切なイラクの人の命もあるのです。

 たくさんの子どもが劣化ウランなどの影響で苦しんでいる実態を私たちはほとんど知りません。

 知る努力をしなければ、情報は入ってこないのです。

 支援のしかたをもっと考えるべきでしょう。

 いま、自分が動きださなければならないと感じています。

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戦争は終わらせることがいちばん難しい

 北朝鮮のミサイル問題は、国連安全保障理事会が全会一致で中止を要求しました。今後は、北朝鮮が六カ国協議に再度参加するかどうかが焦点になるでしょう。

 一連の報道の中で、政府・与党の中から、自衛行為として、相手国の地上ミサイル基地を攻撃することを真剣に検討すべきだ、という意見が複数出たことについて、強い不快感を持ちました。

 防衛という視点から見れば、相手国から発射されたミサイルをすべて迎撃することは不可能に近いそうです。また迎撃してもその破片が地上に降り注ぎ、被害が出る可能性があるようです。したがって、ミサイルが発射される前に、その兆候が見られた場合、基地自体を攻撃してミサイルをたたくことは防衛の範囲内だという論理です。

 なぜ、このように戦争を始めることに熱心なのでしょうか。

 戦争になれば、どんなに攻撃しても、必ず報復攻撃を受け、たくさんの犠牲がでることは必至なことです。

 日露戦争、第一次世界大戦、そして太平洋戦争、さらに現在も続くイラク戦争、そしてイスラエルとパレスチナの紛争など、歴史の事実が証明するとおり、戦争を始めるのはやさしくても、終わらせることは非常に難しいことなのです。

 歴史に「もし」はタブーですが、太平洋戦争において、もし日本政府が躊躇することなく、10日早くポツダム宣言を受諾していれば、広島・長崎の原子爆弾投下、それに続くソ連参戦はなかったのです。

 戦争に対する真摯な反省、自己批判がいまだにないことから、日本はまた軍事国家への道を「誰も気がつかないまま」進んでいるように思えます。

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ミサイル発射の影で…

 北朝鮮によるミサイルの連続発射が、各方面に波紋を広げています。

 厚いベールに包まれた独裁国家による暴走、などと言われていますが、歴史を振り返ってみれば、私たちの住む日本も、第二次世界大戦へ向かう道のりは、暴走だったように思われます。

 国家の経済力があまりにも違い過ぎるアメリカばかりか、イギリス、中国、オランダなどと戦争を始めたのは「国家の暴走」だったのではないでしょうか。国外から見れば「何を考えているのかよくわからない」と、当時の日本のことを不思議がっていたかもしれません。

 転じて、当時の日本国内は、教育・社会のすみずみまで軍国主義が浸透し、国民は何の疑問も持たないまま、戦争への道を突き進みました。

 現在の北朝鮮と、戦前の日本がまったく同じというわけではありませんが、国家というものは、往々にして暴走しやすいのではないでしょうか。イラク戦争を始めたアメリカも、私は無謀な選択だったと思います。開戦前後は圧倒的な国民の支持を得ていたことは事実なのです。

 国内問題にしろ、海外にしろ、私たち一般市民が国家権力の行き過ぎた狂気とも言える行為を止めることは不可能なのでしょうか。

 冷静になること。言動に真の責任を持つこと。これらを政治家、官僚に求めたいと思います。

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本当の国際貢献、真の人道支援…

 昨日紹介した「子どもたちの命」(岩波ブックレット)を読んでいて、草の根的な人道支援が持つ意味について考えました。

 著者の鎌田氏によれば、「いろいろな人たちが、いろいろな国と交流したり、支援したりして、つながっていること、あるいは理解をしあっていることが、この国のほんとうの安全を守るうえで大事だと思っています」と述べています。

 つまり、医療支援など本当に役に立つ支援や貢献をすることによって、支援を受けた国の子どもたちはそのことを決して忘れない。それが日本との信頼関係になり、国と国の友好関係につながるということなのです。

 これは、すごい地味なことかもしれませんが、日本が世界から敵国にならないための手段のひとつなのかもしれません。そう考えると、人のため、子どもたちのために行動することが、本当の意味での国際貢献、人道支援、そして日本のためにもなるのではないでしょうか。

 自衛隊で働いている方もたくさんいますし、現在の国際情勢から自衛隊派遣が国際貢献の方法として妥当と言えるのかもしれません。しかし、地味でも、カッコよくなくても、もっと多彩なやり方があってもいいのではないかと思います。

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子どもたちの命 ―チェルノブイリからイラクへ

「子どもたちの命
  チェルノブイリからイラクへ」

鎌田 實・佐藤 真紀 著

岩波ブックレットNo.677 2006年

子どもたちの命 ―チェルノブイリからイラクへ

 イラク戦争の最大の被害者はイラク国民、そして子どもたちです。

 本書は、イラクをはじめ、チェルノブイリなど世界各地の子どもたちに医療支援を続けている二人によって書かれました。私たちが知っているようで、実はまったくわかっていないことがたくさん書かれています。んそ

 イラク戦争は、独裁者サダム・フセインの打倒と大量破壊兵器の壊滅が目的でした。しかし、戦争のために多くのイラク国民、子どもたちが亡くなりました。今なおケガや病気で苦しんでいる子どもも大勢います。

 著者たちは、ただ平和を主張するのではなく、医療支援という行動を展開しています。主張だけでは、現実を知らない評論家に過ぎない、とにかく行動をしなければいけない、というのが著者の考え方です。

 私も、著者が活躍するJIM-NET(日本イラク医療支援ネットワーク)にアクセスしてみました。自分で何ができるか考えてみたいと思います。

JIM-NET ホームページ

http://www.jim-net.net/

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何のための国会なのか

 報道によれば、国会は、9月で退陣を表明している小泉首相の強い意向で、会期の延長は行なわず、18日に閉幕します。

 教育基本法改正案、「共謀罪」創設のための組織犯罪処罰法改正案などの重要な課題は、先送りされる公算が高くなりました。さらに、今後、消費税の引き上げ、防衛庁の「防衛省格上げ」問題、そして憲法改正論議など、次々と政府与党は、右傾化政策、市民生活圧迫の政策を打ち出す構えでいます。

 小学生の時、社会科で国会のことを学んでから、いつも思うことですが、なぜ国会は一年中開かれないのでしょうか? 地方自治体の議会にしても、一年の中で休んでいる期間の方が長いような気がします。一般市民の年間の休みは、多くてもせいぜい90日程度でしょうか。しかし、国会・議会の実質的な審議も良く見積もって同じくらいのように思えます。

 大切な問題について、しっかりと議論を進めるためには、十分な時間をかける必要があると思うのは、小学生でも理解できることです。私たちは仕事で必要とあれば、日曜日でも祝日でも働くことがあります。しかし、国会や議会が日曜日に開かれた、ということは聞いたことがありません。

 国会終了後に小泉首相は、サミットなど外遊が予定されているようです。今や政治ショーと化し、何の成果も期待できないサミットなど無意味のような気がします。しかも、政治上の関係が悪化している韓国や中国との問題は棚上げ状態です。

 一般市民を馬鹿にしたような、政治家たちの姿勢にあきれ返るばかりです。政治的な策略ばかりに走るのではなく、本当に市民のために働く政治家はいないのでしょうか。

 すべて、なにもかも、9月以降の新政権に「丸投げ」しているように見えます。

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大阪・池田小学校児童殺害事件から五年

 大阪大学付属池田小学校で、侵入者による殺傷事件で児童8人が死亡、教師を含む15人が負傷した日から、今日で5年が経過しました。

 その事件の大きさと残虐さに、まだ記憶も新しく、あの日、報道を通して受けた衝撃が、昨日のことのように思い起こされます。

 犯人の元死刑囚は一審で控訴しなかったために、判決通り死刑が執行されました。いくら憎んでも足りないくらいですが、この死刑執行には一抹の疑問が残ります。

 それは、犯人がどのような心理状態で、なぜ犯行に及んだのか、完全に解明されないままで死刑にしたことは、はたして正しかったのだろうか、ということです。犯人の精神が病んでいたとしても、その病理、および心理を明らかにすることが、将来的な犯罪の防止に寄与するのではないかと思います。

 自分が殺害された遺族の立場に立たされれば、そのような悠長なことは言えないかもしれません。しかし、前例のない凶悪・残虐な事件だからこそ、真実の究明をもっと精細に行うべきではなかったのかと思います。

 犯人の死刑が執行されても、殺されてしまった子どもが帰って来るわけではありません。遺族の方々の無念と苦しみは、今もなお、さぞ辛いことだろうと思います。だからこそ、悲劇を二度とくり返さないための追求と方策が第三者の立場から行われるべきではないでしょうか。

 心理学の世界からは、まだ答えは出ていません。

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死刑について考える

 報道によれば、連続幼女殺害事件の宮崎被告が、死刑についてのメッセージを発していたことがわかりました。その中で、宮崎は死刑に対する恐怖と、絞首刑の廃止について言及しています。

 さて、この時に死刑のことを考えてしまいます。

 死刑が最高刑として制度化されている国は、世界の中では少数で、122か国が、法律上または事実上、死刑を廃止しているそうです。

 死刑廃止の是非についての論議の時に、必ず持ち出されることが「死刑抑止論」です。死をもって罪を償う制度があるから凶悪犯罪の抑止になる。また、死刑が無くなれば何をやっても死ぬことはない、と考える人が出てくるので死刑は必要、という考え方ですが、現実にはどうでしょう。

 秋田県で小学一年生の男の子が惨殺された事件が連日報道されていますが、最も「死刑を望まれやすい」子どもに対する殺人事件は後を絶ちません。

 つまり、死刑制度は、まったく犯罪の抑止にはなっていないのです。しかし、もし自分の肉親が殺されたりしたら、犯人を死刑にしてやりたいと私も思うかもしれません。

 しかし、それは「憎しみの連鎖」でしかないと思います。

 また、「冤罪」という問題もあります。過去、特に第二次大戦敗戦時までは罪なき人々が大勢殺されました。戦後も、もしかしたら冤罪によって死刑にされてしまった人がいるかもしれないのです。

 一度、死刑が執行されてしまうと、もう後戻りはできなくなってしまいます。

 かつて、名優チャールズ・チャップリンが映画「独裁者」の中で、「一人を殺せば死刑になるが、多数を殺せば英雄になれる」という言葉を思い出します。

 死刑制度について、私たちはもう一度考えてみるべきではないでしょうか。

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愛国心を考える

 昨日のブログを書きながら、「愛国心」というものを考えてみました。

 そもそも「国を愛する」ということがどういうことなのか、私たちはよくわからないまま、今まで来ているように思います。

 故郷を愛する、国を愛する… このように言われても、特に若い人はよくわからないと思います。ピンとこない、という感じでしょうか。

 でも、「地球を愛する」というのは、何となくわかります。地球の自然、生命、遺産を守り、愛することは大切なことだ、というイメージを持つことができます。

 国というひとつの政治・行政単位でものごとを考える時代はいつまで続くのでしょうか。それに対する忠誠を市民に強要し、権力を維持し、支配を続ける限り、愛国心というものは、虚栄なものでしかないような気がします。

 かつて1970年代から80年代にかけて「ソ連脅威論」という脅迫的な思想が日本を駆けめぐりました。当時のソビエト連邦が凍らない土地を求めて、北海道に侵略して来る、と政府もマスコミも本気で叫んでいました。そのために自衛隊が強化され、国防予算の増額は聖域とされました。当然、国を守る、ということが真面目に論議されました。

 結局ソ連邦の解体によって、その実情が明らかにされ、「脅威論」はまったくのでっち上げだったことがわかりました。

 その時代、その時において、私たちは権力者によって情報を操作され、上からの思想を刷り込まれます。現在では、小中学校で道徳の教材として配布されている「心のノート」が、子どもに愛国心を植えつけるための道具として使われているのは明白です。

 素直な気持ちで、日本人としての誇りを持つことは、私は正しいと思います。戦争とは無縁のスポーツの世界で、日本代表チームが活躍すれば、正直嬉しいと思います。

 しかし、権力者による愛国心の押しつけは、必ずその裏に何かたくらみがあると考えていいでしょう。私たちは、そのことを忘れてはなりません。

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愛国心を評価する、という愚弄

 毎日新聞26日付の報道によれば、埼玉県を始め、岩手、茨城、愛知県の小学校の通知表に「愛国心」を評価する項目があるそうです。

 埼玉県では、小学6年生の社会科の観点別評価項目のひとつに「わが国の歴史と政治、および国際社会での日本の役割に関心を持って意欲的に調べ、自国を愛し、世界の平和を願う自覚を持とうとする」というのがあるそうです。これは、担任の先生が通知表において三段階で評価する項目のひとつです。

 この「愛国心」の項目がA、B、Cのうち、BまたはCと評価された子どもは「非国民」なのでしょうか?

 国を愛するということは、私は間違いではないと思います。しかし、もともとは心の内の問題なのではないでしょうか。愛する程度や思い方の違いは人によってさまざまだと思います。それを画一的に成績としてランク別に評価するのは愚弄でしかありません。

 学校は、愛国心の評価を高めるために、子どもに愛国心を植えつけるための教育をするのでしょうか。それこそ押しつけになってしまうのではないでしょうか。教育基本法の改正問題を先走りするかのような教育現場の滑稽さにあきれかえってしまいます。現場の先生はどのように考えているのでしょうか? まったく疑問を感じないまま、評価をしているのでしょうか。

 人の心情まで成績として評価することが本当の教育だとは思いません。まるで第二次大戦時代の国民学校・軍国教育に逆行してしまったかのようです。

 だんだんと、ゆっくりと、知らない間に、間違った道を私たちは進んでいるような気がしています。

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法の拡大解釈と強行採決 ―共謀罪のゆくえ―

 先週金曜日に、国会審議(衆院法務委員会)において、現代の「治安維持法」とも呼ばれる「共謀罪」の強行採決が行なわれそうになりましたが、土壇場で回避されました。

 成立を目指す与党・自民、公明党にとっては、医療制度改革関連法案の委員会採決を強行したことに続いて、強引な採決を連発することは、国民からの批判を招きかねないと判断したようです。また、共謀罪に反対する野党・民主党は、表向き反対でも、本音では与党の強行採決を期待しているとも伝えられています。これも与党のイメージダウンを狙っているようです。

 このように、市民生活を脅かす法律の審議が、政争の具になりはてていることに強い失望を感じます。政治のレベルの低さ、自分勝手さには閉口します。

 さて、共謀罪の問題点があまりマスコミでは報道されていないためか、いまひとつ、その重さが認識されにくいようです。

 戦前、恐怖政治の代名詞のひとつであった「治安維持法」は1925(大正14)年、国体維持を目的に施行されました。当初は共産主義活動の阻止を想定したものでしたが、次第に適用範囲が広がり、反政府的な言動の取り締まりに広がりました。

 共謀罪について一番の問題点は、治安維持法の時の適用範囲の広がり、つまり「法の拡大解釈」にあるのです。与党は、共謀罪の適用をテロ組織、暴力団などの犯罪組織などに行なうとしていますが、拡大解釈はいくらでもできるようになっています。

 例えば、個人情報保護法は、本来は市民の個人情報を守るための法律として施行されたはずですが、不祥事による処分者の氏名など、役所のご都合主義的拡大解釈により情報公開は後退しています。また国旗国家法は、強制しないはずだったのに、君が代斉唱で起立しなかったという理由で教員の懲戒処分が出ています。

 このように、法律はその時代によって、いくらでも都合の良い解釈を行ない、それがどんどん拡大していくのです。最も究極的なものは、憲法9条と自衛隊の関係ではないでしょうか。自衛隊の存在が既存の事実だから憲法9条を変えよう、というのは本末転倒としか言いようがありません。

 共謀罪も、施行されても適用が少なければ、どんどん拡大解釈されて、市民団体、一般市民に「監視の目」が及ぶことが十分に考えられます。また、仮に有罪にならなくても、その前に警察権力による「逮捕」という段階があり、それだけでも人の人生を大きく傷つけるものになります。

 この問題を身近なものとして、私たちは考えなければなりません。

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国境なき歴史教科書

 新聞報道によれば、フランス、ドイツ両政府の後押しで両国の学者が共同編さんした初の歴史教科書が出版されたそうです。

 これは両国の高校生向け歴史教科書で、1945年の第二次大戦終結以降の現代史を扱っています。

 この教科書を手にしたフランスの高校生は、東西ドイツ統合の歴史を従来よりも詳しく学ぶことになり、ドイツの生徒はフランスの非植民地化政策や政治的な変遷を深く知ることになります。

 編さんにあたっては、両国の歴史家各5人が十か月にわたって討論を続け、歴史認識の差をなくす作業を続けました。

 かつて、第二次大戦で敵対国だった両国の歴史のすり合わせは、大変な努力が必要だったのではないでしょうか。しかし意外にも、最も対立したのは、戦後のアメリカの役割をどう表現するか、だったそうです。

 どこかの国のように、無条件・思考停止状態で、アメリカを崇拝するのとは、ずいぶんと違うようです。

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暗黒社会の到来 ―共謀罪の恐怖―

 報道によれば、政府・与党は連休明けにも、「共謀罪」創設法案を国会で強行採決する見通しです。「共謀罪」は、犯罪を実際には行なわなくても、相談・合意しただけで犯罪とされる法律です。例えば次のようなケースが考えられます。

 希少生物の生息する森にマンション建設が強行されると分かり、町内会と環境保護NGOが「建設会社ロビーで座り込み運動をしよう」と決めた。その場合、合意したメンバーは実行しなくても「威力業務妨害罪」の共謀罪。(東京新聞より抜粋)

 対象となる団体の定義があいまいで、共謀罪の対象となる罪が619種類にもおよび、一般市民、NGOも摘発の対象になるのは明らかです。

 また、共謀がどの時点で成り立つのかもあいまいで、警察によって意図的に運用される可能性も高く考えられます。例えば「うん、やろう」と言わなくても、目くばせでも十分成立する、と法務省は国会の場で認めています。

 上記のケースで、環境NGOに「がんばってね」と激励したり、寄付をした市民まで共謀罪の対象となるのです。これは共謀の合意の定義があいまいで、限りなく拡大解釈することも可能だからです。

 さらに、捜査当局に自首した者は刑が減免されることになっているため、密告が横行することも考えられます。これは、いまの北朝鮮社会で日常的に行なわれていると言われますが、日本でも、戦前・戦中が密告社会であったことは歴史が物語っています。わざと共謀に加わって自首し、相手を陥れることも可能になるのです。

 戦時中、治安維持法により、人々の言動は制限され、特高警察が市民を次々と逮捕・拷問をしました。横浜事件のように警察のでっち上げで多くの人が苦しみながら亡くなりました。弾圧された人々は、労働運動、社会主義者、宗教関係者と幅広く、男女の区別もありませんでした。

 話の勢いで、強がりや過激なことを話ただけで死刑になった時代が日本にもあったのです。

 共謀罪は、暗い過去だったはずの、暗黒社会の再来です。

 市民団体、NGO、日弁連、マスコミ、ジャーナリストらが反対を表明しています。私たち一般市民も、声を上げなければなりません。

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水俣病―公式確認から50年

 「公害の原点」といわれる水俣病は今日、公式確認50年を迎えました。水俣病は、チッソ水俣工場(水俣市)からの排水中の有機水銀が、不知火海の魚介類を汚染。それを食べた沿岸住民に手足のしびれや、感覚障害などの症状が現れました。

 1956年5月1日に、チッソ付属病院医師が水俣保健所に「原因不明の患者発生」を報告しました。

 被害は不知火海広域に及び、熊本、鹿児島両県への認定申請者は延べ2万1021人(3月末現在)。認定患者は2265人で、このうち1577人(同)が亡くなっています(西日本新聞より抜粋)。

 発生の確認から50年。いまだに被害で苦しむ大勢の人がいます。そして、それを認めない国家・与党政府。日本という国が、いかに弱者に対して冷たいか、典型的な事例と言えます。

 まるで被害者が全員亡くなるのをじっと待っているかのような政治家・役人の態度には許せないものがあります。

 公害病は、イタイイタイ病、スモン病など数多くの悲劇を生みましたが、高度経済成長時代のもうひとつの姿でもあります。中国を始め、東南アジアなど、いま現在、高度成長を続けている国は公害を起こす危険性は、決して否定できません。その悲劇を二度とくり返さないためにも、日本政府は、水俣病で苦しむ人々を一日も早く救済してほしいと思います。

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教育基本法改正問題を考える

 報道によれば、教育基本法改正案が政府・与党によって国会に提出されました。今後、連休明けから審議を始め、会期の問題はあるものの、圧倒的な与党の数の論理によって、可決・成立の道を歩む可能性が高くなりました。

 教育基本法改正の論議として、いちばんに挙げられるのは、改正案「教育の目的」のなかのひとつ「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」という一文ではないでしょうか。

「国を愛する」という「公の精神」を改正の目玉としているようですが、これによって、何が変わるのか、よくわからないところがあります。

 しかし、改正案が成立すれば、現在よりさらに加速した「愛国心教育」が学校教育の場で行なわれることになるでしょう。通知表に「あなたの愛国心の評価は○です」などと記載される日が来ることになるかもしれません。

 国民ひとりひとりの人権など、個性の尊重の上に「公に対する忠誠心」を置くことは、国家・政府にとってどのような意味があるのでしょうか。

 それは、子ども・国民の思想を統制し、荒廃した教育現場を立て直そうとする意図が見えてきます。しかし、これは非常に安易なやり方です。国民の思想・信条を統制することは、戦前の大日本帝国の軍隊中心的なやり方と同じで、権力者にとっては、やりやすい方法なのです。

 戦争をしないために、非武装中立を掲げ外交政策を強化する道を選ばす、軍隊を持ち他国を威圧する現在の国防政策と根っこは同じです。軍隊を持つ方がお金はかかりますが、手っ取り早いのです。

 子ども社会を取りまくさまざまな問題、―子どもによる殺傷事件、いじめ、不登校、ニート、援助交際、覚せい剤など、ひとつひとつ正面から取り組み、ていねいに対処していかなければならないことを、法律ひとつで解決できると、「公の忠誠心」を養えば何とかなると、政治家たちは本当に考えているのでしょうか。

 改正案には家庭教育や幼児教育についても言及しています。虐待、少子化など、子どもを育てにくい現実から目をそらし、高尚な言葉を並べるだけでは何の解決も効果も期待できません。

 実際の学校教育現場では、競争原理が導入され、成績が優秀な子どもをたくさん育てることにまい進しています。さらに愛国心教育が導入され、子どもたちはさらに統制化された教育を受けるようになります。

 多様化・多角化された社会構造に逆行するような学校教育に明日はあるのでしょうか。勉強がわからない子ども、勉強の楽しさを知らない子ども、障碍があって十分な教育が受けられない子どもたちは、ますます排除される危険があります。

 例えば学校の運営を学校法人に限るのではなく、NPO法人や地域社会でもできるようにして、チャータースクールのようにさまざまな教育スタイルがあって、それを自由に子ども・家庭は選択できるようなシステムが求められていると、私は考えます。当然、市民による手作りの学校であっても、国からの十分な援助を受けることが必要です。

 教科学習の成績の上下だけという一元的な視点で学校を選択する時代は終わりを告げているように思います。

 教育基本法の改正についても、十分な論議を国会の中だけでなく、世論・マスコミでも積極的に行なってほしいと思います。

 

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北朝鮮拉致事件、アメリカ議会で証言について考える

 報道によれば、アメリカ下院のアジア太平洋小委員会とアフリカ・世界的人権・国際活動小委員会が「北朝鮮の人権最新状況と国際的拉致問題」について公聴会を開きました。この公聴会で、拉致被害者である横田めぐみさんの母早紀江さんが証言をしました。早紀江さんは、拉致発覚までの経緯や親としての感情を率直に吐露。その上で拉致解決に向けてアメリカ政府に協力を訴えました。

 早紀江さんら拉致被害者の家族は、今日にもブッシュ大統領と面会することが決まったそうです。

 この経過を見ていて、気になることは、北朝鮮拉致問題と何ら関係ないアメリカ政府が、どうしてここまで協力的なのか、ということです。人権を大切にする国家だからだ、と言えば「素晴らしい」の一言ですが、大統領の面会も含め、何かパフォーマンス的なものを感じます。ブッシュ政権は本当のところ何を考えているのかを思索してしまいます。

 さらに、やや憤慨するのは、当事国である日本の政府は拉致問題について何をやっているのか、ということです。小泉首相が北朝鮮を二度も訪問したにもかかわらず、外務省高官レベルでの交渉が思い出したように行なわれては立ち消え、何ら解決に至っていません。

 解決に向けて努力を… とお題目のように唱えるだけの姿勢は、まったく評価するに値しません。被害者家族の高齢化、事件の風化など、残された時間は限られているのです。このまま時間切れを待っているかのような態度をすぐに改め、すぐに拉致問題解決に向けて、日本政府は全力で動き出すべきです。

 そして、私たち市民も、この問題を忘れることなく、被害者家族を陰日向から支援していかなければならないと思います。

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原発の再評価

 チェルノブイリ原発事故に関連した報道サイトを検索していました。

 近年、欧米各国では、原油価格の高騰などから、原子力発電を再評価する意見が相次いでいるそうです。原発は余分な熱を排出しないので、地球温暖化の防止にも役立つクリーンなエネルギーとして見直しが進んでいるそうです。

 確かに原子力エネルギーは無限の可能性を秘めているように見えます。しかし、一般市民である私たちには危険なものである、という意識をぬぐい去ることはできません。

 世界の文明が進歩し、都市国家が形成され、巨大化・肥大化するにしたがって、消費されるエネルギーは膨大なものとなりました。例えば風力発電などの自然利用の方法では、エネルギーがはるかに足りないだけではなく、文明自体が崩壊してしまう時代になったと考えるのが正しい見方なのでしょう。

 巨大消費には、膨大なエネルギーを供給する原子力がいちばんである、という考え方が、今後も支配的になるのは間違いないようです。

 本当に、それが正しいのでしょうか?

 今から数百年後、もし地球文明が存続していたら、「20世紀から21世紀と呼ばれた時代において、人類は非常に危険な『火遊び』をおこなっていた」と言われるかもしれません。

 また、文明の拡大が頂点に達し、崩壊した後、「風の谷のナウシカ」の世界のように、限られた土地とわずかな文化だけが人間に残されるかもしれません。

 それほど先のことではなく、私たちの子どもの世代において、人類は大きな試練を迎えるかもしれません。それは私たちの責任なのです。

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チェルノブイリの真実

 昨日、チェルノブイリ原発事故から20年が過ぎたことを書き、「訳者」さんからコメントをいただき、以下のサイトを紹介していただきました。エレナさんという方が、ゴーストタウンとなったチェルノブイリ周辺地域をバイクで旅行した記録です。

 非常に重い写真が数多く掲載され、知らなかった事実がわかります。私自身の認識がいかに甘いかも思い知らされました。ぜひ一度ご覧ください。

http://www.geocities.jp/elena_ride/

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