臨床発達心理士資格認定のための一日講習会
今日は、臨床発達心理士資格認定のための一日講習会に参加しました。
会場は小金井市にある東京学芸大学です。
郊外にある大きな大学は緑がたくさんあっていいですね。
臨床発達心理士は、こどもを取り巻くさまざまな分野での活躍が今後期待されている職種です。論文作成など、認定までには大きな壁がいくつもあるのですが、がんばってみたいと思います。
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今日は、臨床発達心理士資格認定のための一日講習会に参加しました。
会場は小金井市にある東京学芸大学です。
郊外にある大きな大学は緑がたくさんあっていいですね。
臨床発達心理士は、こどもを取り巻くさまざまな分野での活躍が今後期待されている職種です。論文作成など、認定までには大きな壁がいくつもあるのですが、がんばってみたいと思います。
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報道によれば、教育基本法改正案が政府・与党によって国会に提出されました。今後、連休明けから審議を始め、会期の問題はあるものの、圧倒的な与党の数の論理によって、可決・成立の道を歩む可能性が高くなりました。
教育基本法改正の論議として、いちばんに挙げられるのは、改正案「教育の目的」のなかのひとつ「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」という一文ではないでしょうか。
「国を愛する」という「公の精神」を改正の目玉としているようですが、これによって、何が変わるのか、よくわからないところがあります。
しかし、改正案が成立すれば、現在よりさらに加速した「愛国心教育」が学校教育の場で行なわれることになるでしょう。通知表に「あなたの愛国心の評価は○です」などと記載される日が来ることになるかもしれません。
国民ひとりひとりの人権など、個性の尊重の上に「公に対する忠誠心」を置くことは、国家・政府にとってどのような意味があるのでしょうか。
それは、子ども・国民の思想を統制し、荒廃した教育現場を立て直そうとする意図が見えてきます。しかし、これは非常に安易なやり方です。国民の思想・信条を統制することは、戦前の大日本帝国の軍隊中心的なやり方と同じで、権力者にとっては、やりやすい方法なのです。
戦争をしないために、非武装中立を掲げ外交政策を強化する道を選ばす、軍隊を持ち他国を威圧する現在の国防政策と根っこは同じです。軍隊を持つ方がお金はかかりますが、手っ取り早いのです。
子ども社会を取りまくさまざまな問題、―子どもによる殺傷事件、いじめ、不登校、ニート、援助交際、覚せい剤など、ひとつひとつ正面から取り組み、ていねいに対処していかなければならないことを、法律ひとつで解決できると、「公の忠誠心」を養えば何とかなると、政治家たちは本当に考えているのでしょうか。
改正案には家庭教育や幼児教育についても言及しています。虐待、少子化など、子どもを育てにくい現実から目をそらし、高尚な言葉を並べるだけでは何の解決も効果も期待できません。
実際の学校教育現場では、競争原理が導入され、成績が優秀な子どもをたくさん育てることにまい進しています。さらに愛国心教育が導入され、子どもたちはさらに統制化された教育を受けるようになります。
多様化・多角化された社会構造に逆行するような学校教育に明日はあるのでしょうか。勉強がわからない子ども、勉強の楽しさを知らない子ども、障碍があって十分な教育が受けられない子どもたちは、ますます排除される危険があります。
例えば学校の運営を学校法人に限るのではなく、NPO法人や地域社会でもできるようにして、チャータースクールのようにさまざまな教育スタイルがあって、それを自由に子ども・家庭は選択できるようなシステムが求められていると、私は考えます。当然、市民による手作りの学校であっても、国からの十分な援助を受けることが必要です。
教科学習の成績の上下だけという一元的な視点で学校を選択する時代は終わりを告げているように思います。
教育基本法の改正についても、十分な論議を国会の中だけでなく、世論・マスコミでも積極的に行なってほしいと思います。
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報道によれば、アメリカ下院のアジア太平洋小委員会とアフリカ・世界的人権・国際活動小委員会が「北朝鮮の人権最新状況と国際的拉致問題」について公聴会を開きました。この公聴会で、拉致被害者である横田めぐみさんの母早紀江さんが証言をしました。早紀江さんは、拉致発覚までの経緯や親としての感情を率直に吐露。その上で拉致解決に向けてアメリカ政府に協力を訴えました。
早紀江さんら拉致被害者の家族は、今日にもブッシュ大統領と面会することが決まったそうです。
この経過を見ていて、気になることは、北朝鮮拉致問題と何ら関係ないアメリカ政府が、どうしてここまで協力的なのか、ということです。人権を大切にする国家だからだ、と言えば「素晴らしい」の一言ですが、大統領の面会も含め、何かパフォーマンス的なものを感じます。ブッシュ政権は本当のところ何を考えているのかを思索してしまいます。
さらに、やや憤慨するのは、当事国である日本の政府は拉致問題について何をやっているのか、ということです。小泉首相が北朝鮮を二度も訪問したにもかかわらず、外務省高官レベルでの交渉が思い出したように行なわれては立ち消え、何ら解決に至っていません。
解決に向けて努力を… とお題目のように唱えるだけの姿勢は、まったく評価するに値しません。被害者家族の高齢化、事件の風化など、残された時間は限られているのです。このまま時間切れを待っているかのような態度をすぐに改め、すぐに拉致問題解決に向けて、日本政府は全力で動き出すべきです。
そして、私たち市民も、この問題を忘れることなく、被害者家族を陰日向から支援していかなければならないと思います。
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チェルノブイリ原発事故に関連した報道サイトを検索していました。
近年、欧米各国では、原油価格の高騰などから、原子力発電を再評価する意見が相次いでいるそうです。原発は余分な熱を排出しないので、地球温暖化の防止にも役立つクリーンなエネルギーとして見直しが進んでいるそうです。
確かに原子力エネルギーは無限の可能性を秘めているように見えます。しかし、一般市民である私たちには危険なものである、という意識をぬぐい去ることはできません。
世界の文明が進歩し、都市国家が形成され、巨大化・肥大化するにしたがって、消費されるエネルギーは膨大なものとなりました。例えば風力発電などの自然利用の方法では、エネルギーがはるかに足りないだけではなく、文明自体が崩壊してしまう時代になったと考えるのが正しい見方なのでしょう。
巨大消費には、膨大なエネルギーを供給する原子力がいちばんである、という考え方が、今後も支配的になるのは間違いないようです。
本当に、それが正しいのでしょうか?
今から数百年後、もし地球文明が存続していたら、「20世紀から21世紀と呼ばれた時代において、人類は非常に危険な『火遊び』をおこなっていた」と言われるかもしれません。
また、文明の拡大が頂点に達し、崩壊した後、「風の谷のナウシカ」の世界のように、限られた土地とわずかな文化だけが人間に残されるかもしれません。
それほど先のことではなく、私たちの子どもの世代において、人類は大きな試練を迎えるかもしれません。それは私たちの責任なのです。
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昨日、チェルノブイリ原発事故から20年が過ぎたことを書き、「訳者」さんからコメントをいただき、以下のサイトを紹介していただきました。エレナさんという方が、ゴーストタウンとなったチェルノブイリ周辺地域をバイクで旅行した記録です。
非常に重い写真が数多く掲載され、知らなかった事実がわかります。私自身の認識がいかに甘いかも思い知らされました。ぜひ一度ご覧ください。
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1986年、旧ソビエト連邦のウクライナ共和国で、チェルノブイリ原子力発電所が爆発事故を起こしてから、今日で20年をむかえました。
事故の全容は未だ不明の点が多く、最終的な死者数も最近になって、最大で9000人と修正されるくらい(修正前は4000人)です。しかし、この事故が史上最悪の原発事故であることには間違いありません。被爆した人を含め、今後も一万人単位の死者が出る可能性が高いそうです。周囲の国々、地域でガン患者が多数いる現実を知る必要があります。
現在も原発の周囲30㎞圏内は立ち入り禁止になっており、長い期間にわたって汚染が続くことを思い知らされました。あと何十年したら、もとの人の住める街に戻ることができるのでしょうか。
チェルノブイリ原発事故は対岸の火事ではなく、日本の原発の安全性も強く検証が求められるところです。完璧に安全なものなどは、決してこの世に存在しないからです。原子力発電が火力に続いて主力な電力事業である、という事実に押し流されるだけではなく、私たちは常に原発に対して、危険意識を持ち続けるべきでしょう。
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兵庫県尼崎市で、JR福知山線の脱線事故から今日で一年が過ぎました。
あらためて事故の大きさと、犠牲になられた方々のご冥福を祈り、今なお負傷・治療中の方々の一日も早い回復を願います。
この事故でJR西日本を批判することは当然かもしれません。しかし、それだけで、今後のための教訓になるわけでもありません。私たちはさまざまな交通機関を利用するにあたり、心に覚悟しておくことがあると思います。
それは、どのような交通機関であれ、絶対安全なものはない、ということです。もちろん、安全を追究することは必要ですが、100%安全になることはあり得ないのではないでしょうか。いつ、どこで、どんな事故に遭遇するか、私たちにはわかりません。ですから、ほんの短い距離の電車でも、それなりの覚悟は必要だと思います。
事故だけではなく、いまの時代はテロリストによる事件も、まったく否定できない恐ろしい世の中となってしまいました。
所詮、人間はこんな愚かな生き物なのでしょうか。神がいるのなら、私たちを見て、何と思うのでしょうか。
******
予想できない事故や災害に出会わない方法、と言うか遭遇しても何とか対処できる術は、私が考えるところ、(非常に素朴な思いですが)ゆとりを持った行動がいちばんではないかと思います。もちろん、そんなことはよくわかっていると言われるかもしれませんし、それで事故を回避できれば誰でもできることかもしれません。しかし、ゆとりを持つことは、意外と難しいものです。これは、交通機関を動かしている側にも言えることではないでしょうか。
あわてず、さわがず、ゆとりを持って。…若いときには考えませんでした。でも、何時自分の身がどうなってもかまわない、と思うようになった今日この頃では、何事もゆとりを持って行動できるようになって来ました。
特に、自分自身が動かす側になる自動車の運転は、気をつけるよう、心がけていきたいと思います。
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報道によれば、プロ野球・ソフトバンクは、暴力行為で退場処分となったズレータ内野手に対し、厳重注意の上、罰金100万円(社会貢献活動に充当)と福祉施設への慰問活動などを義務付ける処分を科したそうです。
プロ野球の試合中に、暴力的な行為は時としてよく見られることですが、外国人選手がらみが多いと感じるのは私だけでしょうか。それだけ試合に勝負をかけているから不当と感じたことには暴力に訴えてでも抗議する、と考えることもできるかもしれません。また、外国人は日本人を格下に見下しているので、デットボールを受けるとすぐにカッとなるので暴力行為に及んでしまう、という意見を聞いたことがあります。
いずれにしても、選手同士の乱闘シーンが「珍プレー」番組でおもしろおかしく取り上げられている現状では、暴力も見せ物として認知されても仕方がないでしょう。それだけ我々の思考レベルが低いのかもしれません。
また、ズレータ選手の制裁内容に「福祉施設への慰問活動」とあるのは、やや問題とされるかもしれません。ソフトバンクは多分違う考えでしょうが、これを聞いた人が福祉施設へ行くことは罰に相当するほどの嫌なことなのだ、と誤解する可能性があります。せめて「人の痛みを知るために、福祉活動に従事する」という表現でも良いのではないでしょうか。
交通違反などの軽犯罪に対して、福祉のボランティア活動に従事する罰則がアメリカなどであるようですが、福祉施設の実態を身を持って知るという意味では大切なことかもしれません。しかし、福祉に接することの意味が伝わらなければ、福祉はいつまでもお荷物扱いにされてしまうでしょう。
ズレータ選手には、ぜひとも児童福祉関係の施設を訪問していただき、野球の楽しさを伝えてほしいと思います。
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報道によれば、岐阜県中津川市で中学2年生の少女が、交際のあった高校1年生の男子生徒に殺害される、という事件が起きました。
なぜ殺すに至ってしまったのかは、今の時点ではよくわかりません。しかし、「殺す」という行為が、遠い地平線のかなたからやって来て、あまりにも身近になってしまったような印象を受けます。
今後、加害者はもちろん、被害者のプライバシーも含めて、さまざまな事が興味深い形でテレビのワイドショーや週刊誌などが伝えることでしょう。しかし、加害者を断罪するだけで、この連鎖的に起こる殺人を回避することも、根絶することもできないでしょう。
元々は、「殺す」「殺される」という行為は、戦争のように、非日常的で極端に特殊な状況で発生する異常な事態であったように私は認識していました。しかし、単なる交際の過程で殺人が起きるかのように受け止められる今回の事件は、同世代の子どもを持つ親として、そして一人の人間として、非常に重く考えされられてしまいます。
テレビのドラマや子ども向けアニメのように、私たちの身近には、擬似的な殺人があふれるばかりに存在しています。
ある日、私のクラスの子どもが「おまえら皆殺しにしてやる…」と言っているのを聴いて驚いてしまいました。そうしたら、その子が言っていたことは、大変売れているゲームソフトの中で主人公が言う台詞だと、同僚が教えてくれました。刀などの武器で敵を次々と斬り殺す対戦型ゲームだそうです。その子は(どうやら父親と一緒に)殺人ゲームを楽しんでいるようなのです。
以前に紹介した「木陰の物語」で団士郎氏が述べていたように、「子どもが加害者になるくらいなら、被害者の方がましなどと、親は思えるものではない」のです。「当然、加害者などになって欲しくはない。しかしもっと、被害者にもなって欲しくはなかったのだ」というのが親としての正直な気持ちです。
身近な擬似殺人が、現実に殺人を扇動しているかどうかはわかりません。しかし、私たちも含めて、子どもたちがあまりにも思考が短絡的になっているように見えて仕方がありません。
もし、私が人気アニメ「名探偵○○○」の登場人物の一人だったら、毎週毎週残虐な殺人を目撃して、事件を解決するどころか、精神を病んでしまうでしょう。しかし、子どもたちはそのアニメを見て擬似殺人の現場を数多く体験し、殺人を犯す架空の人間を見ることに慣れてしまうのです。
なぜ、私たちは「人殺し」を求めてしまうのでしょうか。人殺しの話が好きなのでしょうか。深く、深く、考えてしまいます。
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「ごろりん ごろん ころろろろ」
香山 美子 作
柿本 幸造 絵
ひさかたチャイルド 1984年

以前のブログで紹介した「どうぞのいす」の続編的な絵本です。
続編「的」というのは、「どうぞのいす」では一応お話が完結しているからです。この絵本も、主人公はうさぎで、他にろば、きつね、くま、りすと、「どうぞのいす」とまったく同じ登場人物です。
つくったテーブルをうさぎが運んでいるうちに、次々と動物たちが手伝ってくれる、というものなので、これも劇遊びには楽しくできる作品です。最後に、動物みんなが座れるだけの数のいすを、うさぎが徹夜で作り上げるところは、「どうぞのいす」にあったような素朴さにやや欠けるのがひっかかりますが、絵本を見ている子どもたちは大喜び。絵本の中の動物たちと一緒に、イスに座れる幸せを感じとっていました。
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「はせがわくんきらいや」
長谷川集平 作
ブッキング 2003年(復刻版)
(初版は1976年)

「森永ヒ素ミルク中毒事件」と言っても、記憶されている方は少ないのではないでしょうか。
1955年、森永乳業で製造・販売された粉ミルクにヒ素という毒物が混入して、それを飲んだ二万人以上の赤ちゃんに中毒症状が起こり、確認されただけでも130人が死亡しました。裁判の過程で森永側が過失を認めたのは、事件が発生してから15年後の1970年になってからでした。
意外にも、この事件は「食の安全性」を問われたものとして最初のケースだったそうです。粉ミルクという絶対的な安全の必要性を求められるものが、毒性添加物が混入していたという、今考えてもショッキングな事件でした。
「はせがわくんきらいや」は、森永ヒ素ミルクを飲んで、身体が虚弱になってしまった「はせがわくん」を「ぼく」が、きらいだ、きらいだ、と言い続ける絵本です。
はせがわくんは、何かと手がかかり、みんなに迷惑ばかりかける。だから「ぼく」は、「はせがわくんがきらいや!」と言います。最後の一ページまで同じ言葉が続き、この絵本は終わります。
「長谷川くんといっしょにおったら、しんどうてかなわんわ。」
「長谷川くんなんかきらいや。大だいだいだいだあいきらい。」
でも、結局いつも「ぼく」は、はせがわくんの近くにいるのです。はせがわくんを見捨てることはできないのです。その寛容さは、昔の子どもたちの世界が、ゆったりとした時間の流れを持っていたからこそ、存在した感情ではないかと思います。
現代は、子どもも大人も同じ時間、それもスピードのある時間を共有することによって、他人のことなどかまっているヒマなど無くなってしまいました。障碍児・者に眼を向けることなど、とてもできないほど、せかせかと動き回り、生きて行かなければなりません。
ちょっと立ち止まって、この絵本を開き、はせがわくんのことを考えてみませんか?
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「あさえとちいさいいもうと」
筒井頼子 作
林 明子 絵
福音館書店 1979年

以前にこのブログで紹介した「いもうとのにゅういん」とつながっている絵本です。時間的には「あさえとちいさいいもうと」が前で、その数年後が「いもうとのにゅういん」になっていると思います。
ちいさいあやちゃんの世話をしながら留守番することになったお姉ちゃんのあさえが、今回も主人公です。長女の方であれば、誰でも経験したことがある、したの子の面倒をみる、という苦労が、日常の一こまとして描かれています。
長女の心配、二女の天真爛漫さがみごとに描かれていて、長く語り継がれる絵本となりました。
実は、兄弟関係だけでなく、昔はいとこや近所の子どもも含めて、「大きいお姉ちゃん、お兄ちゃん」は、小さい子の面倒をみるのが当たり前でした。小さい子をおんぶしたり、世話をして、子どものうちから子育てを覚えたものでした。
その関係が崩れてしまったのは、いつ頃からのことでしょうか?
今の時代、兄弟関係、世話をする、世話をされる関係の体験は保育園の中で行われています。とても貴重な体験だと思います。
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昨日、4月18日は、私の二女の誕生日でした。
小さい頃は、部屋を飾りつけて、ケーキを焼いて、デパートに行ってプレゼントを買って… と、家族の一大イベントとして盛り上がりました。その頃がとてもなつかしいです。
二女は、もう18歳になりました。この春から高校三年生です。
以前のブログに書きましたが、二女は知的障碍があり、現在は養護学校の高等部に通っています。はっきり言って問題児です。たびたび学校で何かやらかして、親である私が呼び出されます。
「自分には、どうしてわからないことがあるの?」
「どうして友だちと同じ学校に行けないの?」
どうして?… どうして?…
二女の18年間は、疑問の連続でした。その「どうして?」が常に二女を悩ませ続けました。そして、これからも「障碍」を背負い続けながら、苦難の道を歩み続けることでしょう。
世の中に、差別と、偏見と、格差がある限り、弱い立場の人は陽の当たらない道を歩くことになります。これは純然たる事実であり、否定できない現実です。
悲観するだけでなく、二女の未来を静かに見守り続けることが私の役目だと思います。できるだけ長生きして、親としての仕事をやり続けたいと思います。
そして、障碍のある人が、ひとりの例外もなく、人間としての権利と尊厳を持ち、社会で生きていけるための努力を続けたいと希望します。障碍と今まで縁がなかった方も、世の中にはさまざまな障碍や病気を持つ人がたくさんいることを知ってほしいと思います。
お誕生日おめでとう!
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東京都教育庁は4月13日、職員会議で教職員による「挙手」や「採決」を行ってはならないとする通知を都立高校など263校の都立学校長に出した。校長の意志を貫徹させた効率的な学校運営が狙い。旧文部省は2000年に「職員会議は意志決定権を持たない」との通知を出しているが、挙手や採決そのものを禁止するのは極めて異例。教育現場での主導権確保を目指す同庁の姿勢を反映した内容だが、教職員の反発も予想される。(14日付毎日新聞より)
******
学校の先生は大変だなぁ、というのが率直な感想です。意志決定権を持たない職員会議って、はたして意味があるのかなぁ、と思います。また、挙手や採決も否定するのであれば、会議自体が単なる時間の無駄であるような気がします。
…しかし、あれ… まてよ…
私の職場(保育園)でも職員会議がありますが、よく考えてみれば、意志決定権も採決もありません。重要なこと、例えば行事の方針や基本的な内容は管理者(園長)が決めています。会議では、管理者の決定した内容を他の職員に広める(通達する)ことが行われます。
このように、会議が上意下達のためだけにある職場は多いのではないかと思います。特に私立幼稚園や保育園では、管理者の意向がすべての運営面で決定的な影響を及ぼします。
これも、管理者の立場に立ってみれば、当然のことかもしれません。私の職場の管理者は、外での講演で「園長という仕事は、保育の内容を自分の好きなようにやる道楽のようなもの。その道楽を邪魔する職員は、はっきり言っていらない」と述べています。
では、会議というものはそれでいいのでしょうか?
私は「ワークショップ」という全員参加型の会議の提案を行い、職場の中で実験的に実践してみることがあります。参加者が、それぞれ平等な立場で自由に意見を言い合います。意見を闘わせるのではなく、あくまで友好的に、楽しく行う(むやみに相手を批判しないなど)ことがルールのひとつです。
進行役は「ファシリテーター」といい、あくまで話し合いの援助者、まとめ役なので、決定権はありません。
ワークショップが合う内容としては、テーマを持った学習会や勉強会、事例研究会などに、この方法が有効だと思います。
過去に、私の職場では、絵本の勉強会、育児書の学習会、子どもの人権宣言についての勉強会をワークショップ方式で行いました。今年も自主的にやってみようと画策しています。
職員会議で疲れた時は、ワークショップで息抜きするのがいいですね。
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今日、4月17日は私の誕生日です。
47歳になりました。ほぼ半世紀近くになりますね。
この歳まで、入院するほどの大病もせず、その点では幸せだったと思います。
本人も半分忘れかけていましたが、職場の同じ部署の同僚がささやかなお祝いをしてくれました。公休を取っていたA保育士さんもわざわざケーキを持参して来ていただきました。本当にありがとうございました。
人に歴史あり、などと言いますが、私のこれまでの人生は激流の中を流れる小舟のようでした。30歳の時に公務員を辞めた時から、さらに厳しい時を過ごして来ました。それは今も変わりませんし、これからも続くと思います。
まだまだ人生のステージを降りるわけにはいかず、生涯鍛錬が続くと覚悟しています。このブログもその記録のひとつにしていきたいと思います。独りよがりかもしれませんが、私の失敗、敗北、屈辱、未練、心の病が、他の方にとっての反面教師になればと思います。
私の47歳の目標
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「習熟度別指導の何が問題か」
佐藤 学 著
岩波ブックレットNo.612 岩波書店 2004年

習熟度別指導とは、子どもの学力に合わせて子ども集団をいくつかに分けて行う学習指導です。例えば、クラスという本来の集団を解体して、能力別のグループに再編するのです。つまり、できる子にはより高度な指導を行い、できない子には、それなりの指導を行うことです。
ドイツのように能力別の学校に振り分けられる方法も習熟度別指導のひとつです。日本の学校のように、いわゆる偏差値の低い高等学校に進学しても、本人の努力次第では大学に入学できますが、ドイツの場合は、低い学校に行くと将来的に大学には行けないしくみになっているようです。
習熟度別指導は、子どもの能力別に教えるので、教える教師の側も、教えられる生徒の側も「わかりやすい授業」ができるという点が最大の特徴です。つまり落ちこぼれた子どもを救うことができるはずでした。
しかし、現実には、学力の高い子どもには多少のメリットがありますが、低い子どもにはうまく機能していないようです。つまり学力の格差は開く一方になってしまうのです。そのあたりを著者は鋭く指摘しています。できる子もわからない子も一緒に学ぶ、「協同学習」の良さをヴィゴツキーの「発達の最近接領域」という理論で著者は説明をしています。
この理論については、別の日にまた考えてみたいと思います。
学校が「学習塾化」する、この習熟度別指導は私も疑問がいっぱいです。
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ページを開けば、気分はプラネタリウム
「星をさがす本」
林 完次 著 角川書店 2003年

私のように、たまに天体望遠鏡をのぞく程度で、いつも自分の眼で夜空をながめている人にはピッタリの星の本です。
実際の星空に星座の線が引かれているので、とてもわかりやすいのが特徴です。
昨年の誕生日に友人からいただいた本です。
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今日は、私の担任するクラスの保護者会が開かれました。
新年度の始まりで、どこの学校、保育園、幼稚園でも保護者会のシーズンではないかと思います。実は、保護者会は私たちにとって大きなイベントでもあります。保護者会をどう乗り切るかは、非常に重要な課題なのです。小学校の教員向けには、保護者会をうまく運営するためのマニュアル本があるくらいです。
今回、保護者会の準備をするにあたって、私たち保育士スタッフの中で話題になったことがありました。それは、保護者会の中で、お父さん、お母さんに一人ずつ話をしていただくことをやるかどうか、ということです。
保護者の中には、時としてとてもお話好きの方がいます。話し始めると止まらなくなるタイプです。また、保育園の批判を堂々と展開する方もまれにいます。そういう事態があらかじめ予想されると、私たちの側としては、一人ずつ話すことにためらいがでます。また、一人ずつ話すと、それだけ時間がかかることも、限られた時間の中で会を運営する上で支障になる場合があります。
私は、今回クラスに新入園児もいなかったので、予定では一人ずつ話すことはしないつもりでした。
しかし、実際に保護者会が始まって、お母さん方の様子を見ているうちに気が変わってしまいました。最後にひとりずつ話していただき、終了の時間も20分ほどオーバーしてしまいました。
話したいとか、話したくない、ということではなく、保護者や職員が集まる「保護者会」という場で、ご自分のお子さんのことを語ることは、とても大切だと思いました。それは、話すことによって、他のお母さんに情報を提供することになりますし、自分の子育てをふり返ることにもなります。
実際、お母さん方ひとりひとりに話していただいて、本当に良かったと思っています。お母さんが抱える悩みや苦しさ、喜び、戸惑いなどの一端が見えたからです。本来は、お母さんのその語りに一人ずつ応対していくことが必要なのですが、時間の都合上できませんでした。これは今後のクラス運営の中での課題です。
今日の保護者会をきっかけにして、これからの一年間、私たち保育士と保護者である親のみなさんとが、良いコミュニケーションをとり続けることを目標に、日々努力を積み重ねていきたいと思います。
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「ろくべえまってろよ」
灰谷健次郎 作
長 新太 絵
文研出版 1975年

ろくべえという犬が穴の中に落っこちてしまいます。子どもたちは何とかろくべえを助けようと悪戦苦闘します。いろいろな方法を試してみますが、うまくいきません。大人たちも見て見ぬふりをして助けてくれません。
状況は切羽詰まったものなのに、なんだかのほほん、という気分にさせてしまう絵本です。長 新太さんの絵によるものだからでしょうか。でも、最後にろくべえは助かり、絵本の子どもたちも、見ている子どもたちもほっとします。
作者の灰谷健次郎氏は、教育界では神様的な存在ですが、ひとつひとつの作品は、どれも庶民の日常を描いているものばかりです。
この絵本も、長 新太さんとのコラボレーションで生まれた傑作といえるでしょう。
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なぜ子どもは自分の親をあんな風に、
うっとうしく思ってしまうのだろう。
管理者としてうるさいだけではない。
あふれるような愛情もまた、息苦しいのだ。
「親になってはじめて分かる親の恩」
という使い古された言葉がある。
誰もが経験したことだから
慣用句になっているのだろう。
しかし、そういう息長い心情を
私たちの時代は確かに引き継いだだろうか?
いまも持ち続けているだろうか?
子どもたちの起こす
いろいろな事件のニュースを見ながら、
親子関係のことを思うと確信が持てない。
******
子どもは、時として親の存在がうっとうしくなります。親の心配を余計なお世話と考えます。でも、いつの時代でも、親は子どものことを案じ、子どもは親を遠ざけようとします。
何のためらいもなく、子どもを抱きしめられるのは、小学生の前までかもしれません。だから、私は映画「魔女の宅急便」で、お父さんが旅に出る娘のキキを抱き上げるシーンが、とてもうらやましく思います。現実の世界では、子どもはさっさと親の手から離れていきます。
子どもは親から巣立つことで、人間として成長するのでしょうか。親のことを「うざったく」思うことは、普通のことなのでしょうか。
親は、子どもが生まれた時から、どんなに愛しても、これでもう満足ということはありません。いつまでも子どものことを愛し、心配します。
そうして、親と子の関係は、いつまでも続くのでしょう。
親の心子知らず…
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「家族の練習問題 ―木陰の物語―」から、もうひとつエピソードを紹介します。
著者の息子さんが新しい自転車を欲しがりました。小さくなった子ども用はありましたが、大人用に乗るにはまだ背丈が足りません。同僚から中古の自転車をもらいましたが、他の子どもたちは変速機のついたサイクリング用自転車に乗っていました。息子さんは中古のには乗りたがりません。結局、中古が乗れなくなったら新しいのを買うことにしました。
物を買い与えるより、与えないことが
難しい時代になった。
手に入らないことを通じて
学ぶ貴重なことがあるのを
発見する機会が手に入らない、
という奇妙な時代になった。
喜びも悲しみも、満足も不満も、
みな子どもを育てる。
そのどれもに溢れた生活こそが、
人の心を鍛えるのだと思う。
物が溢れている、と言われるようになって何十年が過ぎたことでしょうか。
いま、子どもたちのブームと言えば、「たまごっち」の再来。ひとりで二個も三個も持っているケースもめずらしくありません。
ガマンすることを忘れた大人たち。
ガマンすることを学ばない子どもたち。学ぶ機会を与えない大人たち…
子どものためにと、なりふり構わない大人が物を買い与えていく構図は、批判するどころか、日常の当たり前の姿になりつつあります。
大量生産、過剰広告、大量消費、大量なゴミ…
私たちは子どもの未来を奪っているのかもしれません。
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昨日、このブログで紹介した「家族の練習問題 ―木陰の物語―」には、全部で16のエピソードが掲載されています。16話のどれひとつをとっても、家族・親・兄弟・子ども・障碍者・障碍児・地域・時代… と大切で大事なメッセージが込められています。
私たちは、どのようにして、いま実存する家族と暮らすようになったのでしょうか。
そして、これから自分の居場所である家族はどのようになっていくのでしょうか。
この本を読んでいると、自分自身のことに重ね合わせて、いろいろと考えてしまいます。
本書の中の、ひとつのエピソードを紹介しましょう。
子どもがサッカーや野球など、スポーツをやることに夢中になることがあります。しかし、西武の松坂やメジャーのイチローのように大成する人は一握りに過ぎません。大半の子どもは、いつかどこかで努力だけでは突き破れない限界にぶつかります。
挫折したその時、子どもを見守ってあげられるのは親だけなのです。挫折したことも含めて、子どもを受け入れるのは親なのです。
多分それが親の仕事なのだろう
そして、そこから始まる人生に、
また夢や希望を持つ力を
育てておいてやるのも
親の仕事だろう。
子どもが何らかの事で、自らの限界を悟るのは、早くて小学校の高学年、多くは思春期の頃ではないかと思います。その時、親が子どもを裏で支えてやらなければならない、という当たり前のことを痛いほど教えられました。
子育て、親育ちには、長い道のりがあり、終わりはないことを悟り、ある種の喜びすら感じました。
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「家族の練習問題 ―木陰の物語―」
団 士郎 著
ホンブロック 2006年
家族というコミュニティー、いったいなんだろうと最近よく思うことがあります。
私たちひとりひとりには、異なった家族が存在することがあります。まず、自分が生まれ育った家族。親や兄弟と暮らした日々の記憶は一生忘れることがありません。
もし、親が死別や離婚などの後、再婚した場合、新たな家族構成ができあがります。ステップ・ファミリーなどと言ったりします。
そして、自分自身が結婚すると、そこに新しい家族が誕生します。子どもが生まれれば、さらに家族構成は増えていくことになります。
私たちはいくつもの「家族」の中にいます。そのうちのひとつかふたつは、すでに解体・消滅している場合もあります。しかし、実存しなくても、私たちの記憶の中に「家族」は生き続けているのです。
本書は、心理実践を長く務められた団 士郎氏の著書です。団氏は日本漫画家協会の会員でもあり、この「木陰の物語」はマンガと文による短編ストーリーです。
家族が生み出すさまざまな問題を取り上げいますが、そこには「家族の理想像」というものがあるのであれば、それは幻想に過ぎないことを語っているように思います。
今年、最初に読んだ本で、今のところ、いちばん心に残った本です。
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まったくの偶然ですが、今日からテレビで放映が始まった、「ウルトラマンメビウス」を観てしまいました。
私の世代は、「ウルトラQ」、「ウルトラマン」(言われるところの「初代ウルトラマン」)、「ウルトラセブン」という昭和40年代の一大ブームを体験しています。
それから40年が過ぎて、姿は変われど、なおウルトラマンが存在するのは、なんとも言えない喜びを感じます。
かつてのウルトラマンとはかなりストーリーも違うのですが、30分間、子どもの心になってしまいました。
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幼児教育の関係者、「幼児教室」の経営者、幼稚園・保育園の園長から聞こえていく言葉のひとつに「就学前教育」(または「就学前基礎教育」)というのがあります。
ちょっと聞き慣れない言葉ですね。「就学」とは小学校の入学のことです。その前の教育ですから、「幼児期における教育」という意味になります。
人の発達・成長において、幼児期の大切さは、いろいろな意味ですでに多くのことが語られています。小学校入学前に、幼稚園・保育園・その他の施設に通わない子どもは、日本ではほとんど考えられません。専門家でなくても、親になれば、子どもをどこかの「就学前施設」に入れようと、ごく普通に考えます。
幼児教育の研究・実践は、他の教育分野と同じように、終わりなき努力が必要だと思います。そこに子どもが存在するかぎり、子どもの幸せを求めて、私たちは実践と学習をくり返して行くことでしょう。
しかし、「就学前教育」という言葉には、小学校の義務教育の内容・制度・方法が正しいもの、という前提で考える専門家がいます。つまり、小学校で教える学習内容を検討して、そのために幼児期で「事前準備学習」をする、という考え方です。その実態は、幼稚園・保育園は小学校に入るための「予備校」に他なりません。
特に、有名私立・国立小学校を「お受験」するための幼児教室は、その教室の存在を正当化するために、「予備校的就学前教育」を提唱しています。(私は以前に東京・恵比寿にある有名な幼児教室の常勤講師をしていました。その方面のことについては、別の日に述べたいと思います)
問題なのは、小学校で教える学習内容と学習方法、その学年で教える適齢さ、というものが何の検証もされることなく、無条件で正当化・神格化されている、という点です。
例えば昨日のブログで書いたように、「習熟度別学習」は子どもの差別化を容認・拡大するものであるにもかかわらず、「就学前教育」を提唱する人は幼稚園・保育園にも同じやり方を導入しようと主張しています。
これは、人生で大きな挫折をした経験がなく、学校時代は勉強も出来て、先生からも可愛がられ、学校教育に何の疑問も持たなかった人が抱くようです。
「就学前教育」という言葉と出会ったら、ご用心ください。
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今日は、東京都内の小学校で入学式が行われました。
保育園を卒園したピッカピカの新一年生も、入学式の後で保育園にやって来て、ランドセル姿を見せてくれました。
さっそく学校から配布された教科書を見せてもらいました。こくご、さんすう… 一年間の学習量としては、とても多い(あるいは進度が早い)ような印象を受けました。これでは、教える側の学校の先生は大変だろうなぁ、と思いました。
学校で教える学習内容が削減されたことがきっかけで、子どもの学力低下が問題視されました。いわゆる「ゆとり教育」と呼ばれるものへの批判です。
しかし、よく考えてみると、学習量が減っても、学校五日制の導入で授業時間数も減っているわけですから、子ども自身が学習する「密度」はそれほど変わりないのです。つまり、おおよそ「ゆとり」など、どこにも見あたらないのです。
一年生という新しい環境に慣れるだけでも大変なのに、ひらがな、カタカナ、漢字、たしざん、ひきざん… 学校は勉強するところではあるものの、追いつけない子どもも多いのではないかと危惧してしまいます。
中・高学年になって、「習熟度別学習」と称して、子どもの学力の程度に合わせて三段階くらいのレベルに分けて学習する方式が、子どもの落ちこぼれを救うとして先生方の間ではブームになっているようです。しかし、その段階で学力に差が出てしまっている現状の分析、つまりどうして学力に差が出てしまうのか、という論議はまったくされずに、子どもを「区分け」することだけに熱心になっているように見えます。「子どものレベルに合わせて」ということが、子どもを差別化していることに気がつかないのでしょうか?
一、二年生の低学年の段階で、学力に差が出てしまうのは、さまざまな理由や要因があるでしょう。しかし、一年生の教科書を見て、はっきりとわかることは、「これだけの学習量ができて当たり前」という前提の元に指導内容が設定されているからだと私は考えます。
現実に、勉強がわからない、うまくできない子どもは大勢いるのです。経済的に余裕のある家庭であれば学習塾へ通い、補習授業を受ければ追いつけるかもしれません。しかし、塾に行きたくても行けない子もいるのです。また、ひと昔のように、「勉強がわからない子どものための塾」は、大手進学塾に淘汰されてしまい、今では探すのに苦労するくらいです。つまり、塾ですら「わかる子どもがさらに上をめざす場所」になっているのです。
格差社会が子どもの世界にも浸透しつつあります。新しい一年生も、勝ち組と負け組に分かれてしまうのでしょうか。そんなことを考えると、入学した喜びを感じる今その瞬間が、幸せの頂点なのかもしれません。
子どもの学力格差に挑戦したい気持ちでいっぱいです。
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一昨日に紹介した「保母がえらんだ遊びの本」は、出版された書籍に、私が今まで唯一関わったことがある本です。
今はお二人とも亡くなられましたが、1980年代当時、日本児童演劇協会でお世話になっていた落合聰三郎先生と、保育専門学校の恩師であった中谷君恵先生から「遊びの本を作るから来ないか」とお声をかけていただき、本のベースとなる「遊びの研究会」に参加しました。
月一回のペースで、試行錯誤をくり返しながら会合を行い、二年くらいかかって、ようやく本の出版にこぎつけました。その間、担当の編集者の方が劇症肝炎で亡くなられたり、研究会の方向性が見えなくなって解散しかけたりと、多くの紆余曲折がありました。
私は最終的に小学生くらいの子どもの遊びを担当しました。東京・下町の浅草育ちだったので、当時残っていた駄菓子屋まわりをして、独楽やベーゴマを手に入れたり、古い伝承遊びの文献を精読したり、竹馬を作って実際に遊んでみたりして、「遊びを研究」したものでした。
今の若い保育士さんたちをみていると、ピアノも、劇遊びも、運動も、そこそこある程度はこなす「プチ・ジェネラリスト」という感じがします。
私が保育士になった頃は、劇遊びを研究会の中で徹底的に追究したり、絵本や児童文学の研究をしたり、運動遊びを運動発達理論から学んだりと、「スペシャリスト」をめざした人が多かったように思います。遊びの研究会も、それぞれのメンバーが遊びを極めようとした結果が、「保母がえらんだ遊びの本」になりました。
発売開始から長い時間が経過しましたが、いまページを開いても、子どもの遊びの新鮮さが生き生きと伝わって来る本です。この本の執筆・編集に参加することができて、本当に良かったと思います。もう、このような経験ができないのがさびしいです。
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「TUESDAY」
DAVID WIESNER 1991
日本語版は「かようびのよる」というタイトルで、徳間書店から販売されています。

火曜日の夜、無数のカエルたちが蓮の葉(?)に乗って人間の街の中を駆けめぐる、という奇想天外なお話です。
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