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森はだれがつくったのだろう?

「森はだれがつくったのだろう?」

ウィリアム・ジャスパソン 文

チャック・エッカート 絵

河合雅雄 訳

1992年 童話屋

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森の植物や動物が長い年月を経て新しい種におきかわる変化を「遷移(せんい)」といいます。この絵本は、アメリカ・マサチューセッツ州のある森の遷移の様子を200年前から順を追って描かれています。

200年前、最初は農夫が開拓した畑でした。農夫一家が移り去っていったあと、大地は少しずつ変化していきます。5年後に木の苗が育ちはじめます。大地の一画にしっかり根を下ろした最初の木々を「パイオニアツリー」と呼びました。20年後、アメリカシロマツの森へと変化します。さらにマツの木と入れかわり、アカガシワ、ハナノキが育ちます。ここまで最初から80年が経過しています。さらに70年が過ぎ去りブナ、サトウカエデが森を作ります。

その間、トガリネズミ、シカ、リス、アカヤマネコ、クマなどさまざまな動物が入れかわり、森で暮らします。

動物の生態や森の景観が、この絵本の細密な絵によって「体験」することができます。

この絵本の主人公は「森」そのものです。森の遷移は非常に長い時間をかけて、ゆっくりとおこなわれるので、私たちが実際に観ることは難しいでしょう。しかし、この絵本は、本当に森の変化を観ているような感じにさせてくれます。

最後に森や木とのつきあい方についても述べています。理科や自然科学の学習には最適の教材のひとつとなりますが、私は時々ページを開いて、森へ行った気分にひたっています。

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2・26事件から70年

70年前の1936年(昭和11年)2月26日早朝、その事件は起きました。

二十数名の青年将校と彼らの思想に共鳴する民間人が、1500名余の下士官兵を率いて時の首相をはじめとする重臣たちを襲撃、殺害して「維新政府」を樹立しようとした空前のクーデター事件です。

これが歴史の教科書にも出てくる「2・26事件」です。

この事件は実際に多くの人が殺されましたが、発生から三日後に終幕となり、主導した将校らは軍法会議にかけられ、多くが死刑となりました。クーデターは未遂に終わったのです。

事件は軍人が軍隊を率いて政治家を殺害した、というショッキングな面が強調されていますが、この背景にある当時の社会情勢というものを考えてみる必要があると思います。

昭和の始めに金融大恐慌が起き、銀行が次々と倒産・休業しました。日本の主力輸出品である生糸が暴落し、経済的に大打撃を受け、長く不況が続きました。さらに昭和6年の凶作により北海道・東北の農家は飢餓地獄に陥りました。今では信じられないことですが、弁当を持たないで登校する児童、娘を売りに出す、ということが非常に多かったそうです。

このように、社会的・経済的にも閉塞状況にある中で、ごく一部の資産家や政治家だけが豊かな生活を独り占めしている、と若い軍人たちは考えるようになりました。特に徴兵で入隊した兵士の多くは農村出身だったこともあり、農家が苦しむことは耐えられないことだったのです。

2・26事件を首謀した青年将校たちのほとんどが二十代と三十代の始めでした。その行為は決して許されることではありません。ただし、貧窮する国民、農民を思い、国を思う気持ちは人一倍強かったのではないかと推測されます。

しかし、結局は暴走してしまったのです。

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子どもの学力の低下は経済力の低下が原因か

今日の東京新聞によると、共同通信社が全国の小中学校教員を対象に実施したアンケートを実施した結果が載っていました。それによると、家庭の経済格差拡大の影響が子どもの学力におよび、成績が平均程度の子どもが減って下位層が増え、上位層との「二極化」が進んでいる、と回答した教員が五割近くいたそうです。

記事では、長期間にわたった不況の中、生活に追われる親の状況が子どもの学習面に影響していることに教員が苦慮している、と書かれていました。

これは、現実の実態なのかもしれません。しかし、一歩進めて考えれば、子どもの学力低下(が本当なのかは別として)を家庭の問題と捉え、教員自身の指導力の問題を棚上げしているようにも思えます。

家庭の経済力が教育に影響するのは、例えば、学習塾に行く、通信教育を受ける、習い事をする、スポーツクラブに入るなど、学校以外の活動に参加する場合に実感として考えられることです。

つまり、学校以外の場所(つまり学習塾)で、さらに勉強しなければならないことが、そもそもの問題なのではないでしょうか?

統計があるわけではありませんが、公立学校の教員ほど、自分の子どもを私学に入学させると言われています。これも、自身の指導力に自信がない現われのような気がします。

学習塾を眼の敵にするわけではありません。生涯学習からの視点で考えれば、学校制度以外の学びの場は必要ですし、人は学ぶことを忘れてはならないと思います。

しかし、学校教育の補完として、学習塾に行くのが当たり前、学習塾に行かなければ高校に入れないなど、このような現状こそ疑問に感じ、なんとかすべきことなのではないでしょうか? 現実に子どもを持つ親の立場としては、教育にかかる費用は非常に重たいものです。

また、学校関係者は現状を当然のこと、として容認しないでほしいと思います。

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きつねのおきゃくさま

きつねの勇気と優しさを忘れない…

「きつねのおきゃくさま」

あまんきみこ 文

二俣 英五郎 絵

サンリード1984年

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はらぺこきつねは、やせたひよこと出会います。よく太らせてから食べようと思い、家につれて帰りました。そして毎日たくさん食べさせます。ひよこはきつねのことを「やさしいおにいちゃん」と呼びました。そんなことを言われたことがないきつねは、ぼうっとなってしまいます。

そのうちに、やせたあひるが、そして次にはうさぎがやってきて、きつねの世話を受けるようになります。始めは怖がっていたあひるやうさぎもひよこと一緒に、きつねのことを「かみさまみたいなおにいちゃん」と言うようになりました。きつねはそれを聞いて、ぼうっとなってしまいます。

きつねが食べさせてくれたおかげで三人ともまるまると太ってきました。ところがある日、動物たちのにおいをかぎつけたおおかみがやってきました。

きつねは、三人を守るためにおおかみと勇敢に戦います。そしておおかみを撃退します。しかし、その晩、きつねは恥ずかしそうに笑って死んでしまいます。三人は世界一やさしくて、親切で、勇敢なのきつねのためにお墓を作って祈るのでした。

******

ひとりぼっちのきつねはさびしかったのです。太らせて食べようとしたひよこやあひる、うさぎに「おにいちゃん」と呼ばれてうれしくなります。おおかみと真正面から戦ったのは、現代社会の基準から言えば、想定外で、要領が悪く、割に合わない、損をした、犬死にだったと言われそうです。しかし、それでも読んでいる私たち、そして見ている子どもたちの心を動かすものは何でしょうか?

それは、「無償の愛」ではないかと思います。母の愛、親の愛、兄弟愛… みな無償の愛です。感謝されるために与える愛ではありません。でも、きつねは感謝されることで、愛することを知るのです。あまりにも殺伐とした世の中、こんなドラマがあってもいいのではないかと思います。

文を書いた、あまんきみこさんは、私の大好きな童話作家です。「車のいろは空のいろ」「ちいちゃんのかげおくり」などの作品があります。低学年の国語の教科書にも載っているので知っている方も多いのではないかと思います。

絵を描いた、二俣英五郎さんは、「とりかえっこ」などの絵本で有名な方です。

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ベンジーのふねのたび

ハリー・シリーズの姉妹編!

「ベンジーのふねのたび」

マーガレット・ブロイ・グレアム 作・絵

わたなべ しげお 訳

福音館書店1980年

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ハリー・シリーズの絵を描いたマーガレット・ブロイ・グレアムさんによる単独の作品です。

ベンジーは、家族のみんなと旅行をするのが大好き。ところがある日、家族は船に乗って旅行に行ってしまいます。ベンジーはおるすばん。犬は客船に乗れない規則だったのです。次の日、ベンジーは首輪をはずし、家族が乗った船と似ている「うみのじょうおう」という貨物船に乗り込んでしまいます。船はベンジーを乗せたまま出航し、海への旅が始まります。

貨物船の「主(ぬし)」である猫のジンジャーとのやりとりや、ベンジーが無事に帰れるかどうか、実はハラハラする話のはずなのですが、絵の優しさに揺られて、ほんわか、のんびり、とても楽しい絵本になっています。日常生活では味わえない貨物船での生活が子どもを引きつけているのでしょう。

ハリーと同じように、わんこ好きの人にはたまらない絵本です。

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おとうさんといっしょに

車イスに乗って…

「おとうさんといっしょに」

白石 清春 作

いまき みち・西村繁男 絵

福音館書店1987年

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お母さんが用事ででかけたために、あきくんはお父さんと一緒に保育園へ行くことになりました。お父さんは「脳性小児マヒ」のため、身体が不自由です。お父さんの電動車イスに乗って、保育園へ行きます。

この絵本は、あきくんとお父さんが朝起き、着替え、朝食を食べ、自宅を出て保育園へ着くまでの様子が描かれています。

子どもたちは意外と車イスの存在は知っていましたが、実際に見たり、乗ったりした経験はありません。しかし、興味はとてもあるようでした。

ごく普通の日常生活の一コマですが、車イスの障碍者からの視点で街並みの景色が展開していきます。まだまだ車イスには不便な場所が多い日本の社会です。でも、このような絵本に親しみを感じ、障碍者問題に興味を持つことは、とても大切なことだと思います。そして、子どもたちがバリアフリーの世界を将来築きあげてほしいと思います。

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ハリーのセーター

かわいいわんこ、ハリーの第三弾!

「ハリーのセーター」

福音館書店1983年

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くろいぶちのあるしろい犬、ハリーが活躍する三冊目の絵本です。(え? 二冊目はどうしたの? はい、ハリーの二冊目は季節が違うので、別の日に紹介します)

ハリーは誕生日プレゼントにおばあちゃんからセーターをもらいました。ところが、ハリーはセーターのバラの模様が気に入りません。何とかセーターをすててしまおうとしますが、なかなかうまくいきません。ところが思わぬ展開があり、ハリーのセーターは意外なところで役に立つ、というお話です。

このハリーのシリーズやマドレーヌの絵本は、時代的にやや古くなり、絵の世界も現代とは違ったおもむきがあります。それでも、子どもたちは何の疑いも持たず、これらの絵本を熱心に見ています。

時代が変わっても愛される絵本を私たちは継承していきたいと思います。

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マドレーヌといぬ

ここにも名わんこが!

「マドレーヌといぬ」

ルドウィッヒ・ベーメルマンス 作・画

瀬田 貞ニ 訳

福音館書店1973年

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セーヌ川に落ちておぼれそうになったマドレーヌを助けたのは、一頭の勇敢な犬でした。寄宿舎学校で飼われることになり、ジュヌビエーブと名づけられました。みんなに可愛がられ、幸せな日々が続きました。

ところが、規則で犬は飼ってはいけないために、ジュヌビエーブは学校の評議員たちによって追い出されてしまいます。涙を流しながら必死で抗議するマドレーヌ。

みんなでパリの街中を探しますが、どこにも見あたりません。ところが疲れ果てて帰った夜、ジュヌビエーブはひょっこりとマドレーヌのもとに帰ってきます。

異国情緒豊かな絵の中に、マドレーヌたち女の子と一頭の犬の交流が描かれています。生き物を飼いたくても住宅の事情で飼えなかった、という経験がある方には、キューンときてしまうお話です。もちろん、ジュヌビエーブを探して女の子たちが歩き回る場面では、パリの街並みを楽しむことができます。

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どろんこハリー

わんこ絵本の定番!

「どろんこハリー」

ジーン・ジオン 文

マーガレット・ブロイ・グレアム 絵

わたなべ しげお 訳

福音館書店1964年
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黒いぶちのある白い犬・ハリーのシリーズ第一作です。ハリーが街を探検して、自分の家に帰ることができるかどうか?…

やんちゃなハリーが次々と騒動を巻き起こす、とても楽しい絵本です。

個人的には、30年近く前、保育専門学校生の時に、初めて子どもたちの前で読み聴かせをした絵本です。

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「まわりの子が悪い」という心理

滋賀県長浜市で起きた幼稚園児二人が殺害された事件は、犯人が同じ幼稚園児の母親ということでさまざまな波紋をよんでいます。

19日の新聞記事によると、犯人の供述として次のように書かれていました。

「自分の子どもがほかの子どもとの会話に加わらず、なじめないと思った。このままでは自分の子どもが駄目になるので殺した」

「なじめない理由は、ほかの子どもが悪い。一番身近な子どもがいなくなればいいと思った」

まだまだ捜査や取り調べが続くので、今後新たなことが明るみにでるかもしれませんが、この時点での問題点をあげてみます。

まず、自分の子どもがなじめない、という供述。犯人は中国籍で日本語がうまく話せないこともあったようですが、そのために他の母親となじめないことがあったようです。これは外国人に限ったことではありません。地域になじめない、学校になじめない、会社になじめない、社会になじめない… このように周囲に違和感を感じる人は、今とても多いのではないかと思います。

私が勤務する保育園の前にある道路は、毎日十数台の幼稚園バスが通ります。あちこちのバスが停まる場所では毎朝お母さん方の輪ができています。時には子どもがバスに乗って行ってしまった後でも、延々と立ち話をしている光景を見ることがあります。

このように、お母さん同士のコミュニケーションは日常的に行なわれているのですが、これを負担と感じてしまうと、とてもやりにくくなってしまうでしょう。話が上手下手もありますが、相手のお母さんたちとの相性みたいなものもあると思います。

そして「なじめない理由は他の子が悪い」という、他人悪玉論。いま何でも他人のせいにする風潮が世の中にはあるように思います。自分、という領域を侵されたくない、ということからかもしれませんが、どんなことでも他人が悪い、社会が悪い、政治が悪い… というように他者への攻撃的な論理や主張がいろいろなところで展開されているような気がします。

自分を省みる、という言葉はすでに死語になってしまったのでしょうか?

さらに最も問題なのは、それらの理由だけで「殺してしまう」ことです。殺人が非常に日常的になりつつあります。本来、周囲になじめない、他人が悪いと思っても、では自分はどうしたらいいのだろうか? と悩むところだと思います。それが、いろいろ過程はあったかもしれませんが、結果として殺人に走ってしまう。この恐ろしさが異常とは言えなくなりつつあるのが現代社会なのでしょうか?

子どもに大人気のアニメに「名探偵コナン」があります。コナンは毎週殺人事件を名推理で解決していきます。ということは、コナンは毎週殺害された死体を見ていることになります。また、たかがアニメかもしれませんが、それを夢中になって見ている子どもたちが「殺人」という出来事が日常的当たり前になった感覚を持つことが、私はとても恐ろしいと思います。

この事件によって、外国人に対する偏見が高まらないことを祈ります。

そして、幼くして、理由もよくわからないまま亡くなった二人の子の冥福を祈ります。

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ふようどのふよこちゃん

「ふようどのふよこちゃん」
飯野和好・作
理論社 2005年

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里山の自然を思い出させる絵本です。
「ふようどのふよこちゃん」はその名の通り、腐葉土です。

腐葉土に生命がある、という作者の発想に脱帽です。腐葉土は自然の産物であり、同時に自然を生み出す土壌になるのです。

まさしく、腐葉土は、ふよこちゃんは生きているのです。

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「さっちゃんのまほうのて」

「さっちゃんのまほうのて」
  たばたせいいち
  先天性四肢障害児父母の会
  のべあきこ  しざわさよこ 共同制作 1985年偕成社

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さっちゃんはもうすぐおねえさんになります。お母さんのお腹の中には赤ちゃんがいます。

ある日、幼稚園でおままごとで、さっちゃんはお母さん役になれませんでした。友だちたちから「てのないおかあさんなんてへんだもん」と言われたのです。さっちゃんは悲しくなり幼稚園をとびだしました。家に帰るとお母さんに聞きました。

「おかあさん、さちこのてはどうしてみんなとちがうの?

どうしてみんなみたいにゆびがないの?

しょうがくせいになったら、さっちゃんのゆび、みんなみたいにはえてくる?」

お母さんは思いきって本当のことを話しました。指のない手がこれからも今のままであることを… でもお母さんはさっちゃんのことをとても愛していることも伝えました。

やがて赤ちゃんが生まれました。さっちゃんは病院で赤ちゃんと対面しました。

その帰り道、お父さんがさっちゃんに言いました。

「こうしてさちことてをつないであるいていると、とってもふしぎなちからがさちこのてからやってきて、おとうさんのからだいっぱいになるんだ。さちこのては まるでまほうのてだね。」

さっちゃんは、じぶんのてがまほうの手と言われ、少しずつ元気を出していきます。幼稚園の友だちとも仲直りして、この絵本は終わります。

******

先天性四肢障碍は、胎生期の何らかの原因で指が欠損している障碍です。

今日は、この「さっちゃんのまほうのて」を子どもたちに読み聞かせしました。読んでいる私も力が入り、子どもたちも真剣に見入っていました。

話を聴きながら、自分の手を見つめる子。

「おかあさんになれないね」「なれるよ」などと言う子。

終わってから泣き出してしまう子。

このような絵本は、子どもたちの気持ちを引きつけます。しかし、ただ感動して終わりにするのでは中途半端です。

人間いろいろあってあたりまえ。障碍があってもなくても人間であることには変わりないのです。このことを私たちは子どもたちに伝えていかなくてはなりません。

もちろん、すべての人々に伝えるのです。

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創造的な活動とは何かを問い続けて ―その2

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昨日に引き続き、今日も絵の具を使っての造形活動を行いました。

昨日はアクリル絵の具を使い、今日は水彩絵の具を使いました。しかし、どちらも100円ショップで買ったものなので、それほど違いがあらわれることはありませんでした。リキテックスは無理としても、ターナーかホルペインくらいの絵の具は使わせたい気持ちです。

今日の活動を見ていて感じたことです。なんとか具象的な絵を描こうとする六歳の子どもの絵より、形などどうでもいいかのように自由に描いている三歳の子どもの絵の方が、のびのびとして、色の広がりもきれいな絵になりました。

あまり考えないことも大切なのだと思いました。

逆に、具象的な絵を描こうとすれば、技術としての絵画技法を学ぶ段階に入りつつある、とも言えるでしょうか。

しかし、小学校の展覧会などでよく見られる、S式絵画指導法のような、どの子も似通った絵になる描き方には、疑問を感じます。ダイナミックな構図なのですが、絵の中に個性がまったく見られないのです。そうかと言って、何が正しいのか、私もよくわかりません。

ただ、造形活動は受験勉強とか学力とは無縁の世界なので、学校教育や保育の中で、比較的軽視されているような気がします。特に私たちの国では、「できる・できない」「勝ち組・負け組」のように結果重視の傾向があり、教育に関する論議もその辺りに行き着いてしまうように思えます。

創造的な造形活動が、人間の人格形成に大きな貢献をする、ということをこれからも考えていきたいと思います。

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創造的な活動とは何かを問い続けて

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今日は、絵の具を使って絵を描きました。

私は造形教育の専門家ではないので、「絵の指導」ということはできません。ただ、子どもたちに「創造的な体験」をしてもらいたいと考えています。ですから、絵の具の使い方のルールだけを話して、あとは自由に描いてもらいます。

使う絵の具は、赤・黄・青の三原色と白だけです。描いている途中で色と色が混ざり合い、新たな色が出現する経験をしてほしいと思い、最初から多くの色は使いません。

描き方、ということも教えません。私のいる保育園では「人物画」を描かせることもありますが、課題があるとのびのびと描けない、どのように描いていいかわからない、という子が必ずいます。絵を描くことがきゅうくつになってしまっては、そこに創造性は生まれません。ですから、私が絵の具を使う時は、時間にとらわれず、自由に描いてもらいます。

しかし、この「自由に…」というのが、また子どもにとってはわからない場合があります。白い画用紙を前にして迷ってしまう子がいます。その時も、私は特に描き方を教えたりしません。ゆっくりと見守ります。そして、線の一本、かたちのひとつだけでも描ければ、それでいいと思います。その経験をくり返しているうちに、だんだんと、のびのびした絵が描けるようになります。

絵の具は準備から後かたづけまで、けっこう面倒なものです。ですから保育の中で行われる頻度が少ない場合もあるでしょう。私は準備から子どもに手伝ってもらいます。大人が全部やった方が時間的に早いのですが、手伝ってもらうことによって、使い方のルールを覚えてもらいます。それによって、慣れれば子どもが自主的に絵の具を使うことができるようになります。

大人が舞台を用意して、子どもが自由に演じる。造形活動もこれに尽きるのではないかと思います。時には大人も一緒に参加しますが、演じ方を教えることはしません。デッサンのようなものは、楽しい、おもしろい、またやりたいという気持ちを十分に体験した後の段階だと考えます。保育園での私が行う造形活動は、ただ「楽しむ」だけです。もちろん、私自身も楽しみます。

明日も引き続き、絵の具をやろうと思います。

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バレンタインデー

年長児クラスのある女の子が教えてくれました。

「アメリカではバレンタインデーの時、男の子から女の子にプレゼントをあげてもいいんだって。あたしもそんな国に生まれたかったなぁ…」

そうそう、あれもあるけど、それもあり。その柔軟さが大切なのです。

ひと昔のように、保育園の女の子がバレンタインデーにチョコレートを持ってきて、男の子や男性保育士に渡す、という場面も少なくなりました。

私も「義理チョコ」で舞い上がる歳ではないので、決して強がりを言うのではありませんが、お菓子の会社の戦略にまんまと乗って、たくさんのチョコレートを配る姿を見ることがなくなって、良かったと思っています。

みんなが右へならえでなく、自分の主張、自分の生き方を見つけてほしいと思います。

人生で最初の数年間を保育園で過ごす子どもたち。どの子どもものびのびと成長しますが、年齢を加えていくにしたがって、いつの間にか、最初はごくわずかなことですが、大人の持つ醜さを学習してしまいます。いじめや差別の根っこが見え隠れすることもめずらしくありません。

その時、私たちはどうすればいいのでしょうか?

常に自分への問いかけの繰り返しです。保育や教育に関わる身としては、どんな些細なことでも最善をつくすために、試行錯誤を続けていかなければなりません。知ったかぶり、わかったようなつもりでは「偽装保育」に過ぎません。

そのために、いつでも子どもから学ぶ姿勢を持ち続けたいと思います。

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ケンカの仲裁

今日は、男の子二人のケンカの仲裁に入りました。

A君は活動的で運動神経もバツグンですが、「バカ」「死ね」など汚い言葉をポンポン言います。

B君も活発で元気のいい子ですが、すぐに手が出てしまい相手を傷つけてしまいます。

今日も一冊の絵本をめぐってケンカになってしまいました。A君はB君を罵り、B君はA君の顔をひっかいてしまいました。そこで、何とか二人を引き離して、椅子に座らせて両者の言い分を聴きました。

しかし、二人の主張はどこまでいっても平行線です。自分こそが正義であり、謝罪はもちろん、妥協すらもありません。

結局、私が大岡裁きのように、A君には相手を怒らせる言葉がケンカの呼び水になる、ということを言い、B君にはどんな場合でも手を出せばそれは悪い、ということを言いました。

この二人の様子を離れた視点から観ていて、何だか国と国との外交関係に似ているようにだんだんと思われました。

お互いの主張は強引にする。妥協も謝罪も一切しない。ニュースからも同じようなフレーズが流れてくるようで、少しうんざりしてしまいました。

子どものケンカは、いつまでも引きずってしまうと後々子ども自身の心に影響がでてしまうこともあり得るので、解決しない場合はどこかで大人が入り込み、妥結に持ち込みますが、外交はなかなかそうもいきませんね。

私たちは、案外子どもと同じものを持ち続けているのかもしれません。大岡裁きのない国際社会では、いつまでも紛争や争いごと、言い合いが続くのでしょうか。

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近くて遠い国

今日は先週の土曜日に引き続き、放送大学のスクーリング授業、「初歩の韓国語」を受講しました。

朝10時から夕方6時までぶっ続けの授業でした。

意味がさっぱりわからなかったハングル文字が少しわかるようになり、たどたどしいながらも自己紹介ができるようになると、それだけでも楽しい一日でした。
講師の方は韓国人で、とても日本語が上手な上、授業も丁寧に教えてくれました。

韓国語だけでなく、韓国の生活や文化、とくに日本との違いを話してくれました。
隣の国なのに、コミュニケーションや人と人とのつきあい方が、ずいぶんと違うようです。

例えば、韓国ではものごとを何でもストレートに表現するそうですが、まわりくどい日本人とはペースがかなり違うな、と感じました。場合によっては韓国の人はキツいと思えることもあるようです。知り合いになれば、年齢や結婚しているかどうか、ということもどんどん尋ねてくるそうです。親しいからこそプライベートも共有する、という考え方は、私のような日本人にはついていけないかもしれません。

寡黙(?)な私にとっては、まだまだ遠い国なのかもしれませんね。でも、いつかは韓国に行って、友人をつくりたいと思います。

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トリノオリンピック始まる

第20回冬季オリンピックトリノ大会が始まりました。開会式をラジオで聴いたのは、私くらいでしょうか(笑)

オリンピックには、いろいろな想い出があります。長野大会はもちろん、札幌も、東京大会も鮮明に覚えています。すべてテレビでしか観たことがありませんが、数々の感動が記憶に刻まれています。

印象に残るのは、東京大会の女子バレーボール、体操のチャフラフスカさん、マラソンのアベベ選手、円谷選手、札幌大会の笠谷選手を始めとするメダルを独占したジャンプ、フィギュアスケートのジャネット・リンさん、ミュンヘン大会の男子バレーボール…

近年より昔の方が印象深いのは、歳のせいでしょうか?(苦笑い)

トリノでは、どのようなドラマが待っているのでしょうか。開会式は、あらためてテレビの再放送を観ると、情熱的で芸術的なイタリアの風を感じるような気がしました。ルネッサンスやバロックなどの演出は、芸術の名画やキリスト教の宗教画にもつながる美しさを感じました。とても素晴らしい開会式でした。

そして、今夜からの競技が楽しみです。

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モノカルチャー

昨日の続きです。

拡大造林による天然林の伐採とスギ・ヒノキなどを植林することをモノカルチャーと言います。「環境にやさしい」というふれ込みの「ヤシのみ洗剤」などは、東南アジアの天然林を山ごと伐採し、そのあとに原料となるヤシの木を植林しているそうです。

本来、自然林はさまざまな植物が生息して自然生態系を形成しているのですが、このように単一の植物を植えることにより、さまざまな問題が生じてしまいます。例えば、害虫の大量発生や、スギの花粉症などがあります。

こうしてみると、都市空間の中にも、街路樹(イチョウやツツジなど)や桜並木などもモノカルチャーと言えます。

桜の木は維持するために、毎年害虫駆除をしなければなりません。農薬が土壌にしみ込み、他の植物や昆虫に被害が及ぶだけでなく、散布された農薬が大気中に広がり、私たちはそれを呼吸で体内に取り入れてしまうのです。

こうしてみると、環境保護の一環として植林をすることがありますが、むやみに行なうことはかえって悪い結果を生み出してしまうかもしれません。

モノカルチャーは、一見して自然保護のように見えますが、実は生態系を破壊し、私たちの健康にも害になっているのです。都市計画にも、このような考え方がなければ、人間にとっても、植物にとっても不幸であると言わざるを得ません。

もうひとつ、モノカルチャーには遺伝子の問題があります。これは後日述べることにしましょう。

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持続可能な生活と環境教育

今日は、財団法人・日本生態系協会主催の環境教育に関するセミナーに参加しました。

そこで特に印象に残ったことを書きます。

私たち人間が生きていくためには、自然生態系の要素として「太陽の光」「大気」「水」「土壌(地下資源)」そして「野生生物」の五つがあげられます。そのうちひとつでも欠けると、持続可能な生活を維持することはできなくなってしまいます。

しかし、現実には、人間社会の発展は、地球規模の環境破壊を招きました。大気は汚染され、海や川は汚れ、土は農薬漬けになり、乱獲により野生生物は次々と絶滅していきます。太陽の光さえ、オゾン層の破壊による紫外線の増加により、今や悪者扱いになっています。

身近な環境破壊のケースのひとつとして、里山の自然を破壊し、マンションや住宅を次々と建設されている、(まったく偶然ですが)私の勤務する保育園がある街が紹介されました。それにはびっくりしましたが、よくよく考えればその通りなのです。

大量自然破壊、大量生産・大量消費による大量破棄、つまりゴミの排出、これら私たちが生み出したものが、明日の社会、未来の地球を破壊してしまうのです。

私たちの子どもたち、そしてこれから生まれる子どもたちのためにも、私たちがすべきことはたくさんあると思います。その中で、環境教育は重要です。ビオトープなどはその一例と言えるでしょう。

これからも、環境教育のあり方をいろいろと考えて、このブログでも発言していきたいと思います。

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幼稚園は義務教育になるのか?

新聞の政治欄に、自民党が専門部会として「幼児教育の義務化と幼保の一元化」を検討する、と小さな記事が載っていました。

「幼保一元化」というのは、以前にも述べましたが、幼稚園と保育所を統合する問題で、これはもう三十年ほど前から言われ続けたことです。結局は、幼稚園を管轄する文部科学省と、保育所を管轄する厚生労働省の縄張り争いが泥沼化しているのが現状です。例えば、「子ども省」とか「厚生教育省」というように、新たな省庁再編でもしない限り、是非はともかくとして、実現は無理ではないかと思います。

「幼児教育の義務化」というのは初めて聞きましたが、幼稚園が支持団体となっている自民党らしい政策だと思います。これは、自民党や解散した新自由クラブが提言していた「幼稚園と保育所の年齢別住み分け化」が底辺にあるようです。

つまり、0歳から二歳までが保育所、三歳から就学までを幼稚園が受け入れるというものです。もともとは少子化時代に子どもの数を確実に確保したい、という幼稚園側の意向があるものと思われます。

仮に幼稚園が義務化になれば、当然小・中学校と同じように無償化になるのでしょうか? 月額数万円の月謝や十数万円の入園料が無料になれば保護者は喜びますが、財源はどうするのでしょうか? そう考えると実現は難しいような気がします。

票集めのための政党のスタンドプレーにも見えませんか?

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「まま母」はいじわる?

子どもたちに「十二の月の物語」の紙芝居を読んでいた時のことです。

「いじわるなまま母のいいつけで、マルーシカは雪の降る森の中へすみれの花をつみに行くことになりました…」

紙芝居が終わった後で、子どもたちに「『まま母』って、どんな人のこと?」と聞いてみました。

いちばん多かったのは「意地悪なお母さん」。次いで、「怒っているお母さん」「恐いお母さん」「いじめて喜ぶお母さん」などなどと続きました。まま母は、悪いお母さんの象徴になっているようです。

たまたま子どもたちの中にひとり親やステップファミリーの子がいなかったので、なるべく理解しやすい言葉を選んで、「まま母」は「生みの親でないお母さん」ということ、そして優しいまま母も世の中にはたくさんいること、を話しました。

さて、「ひとり親」というのは、保護者がお母さんだけ、あるいはお父さんだけの場合を言います。以前のように「母子家庭」「父子家庭」という言い方は、少なくても公の場では使いません。

また、ステップファミリーとは、子連れ同士の再婚によって新たに創られた家族を言います。

しかし、「ひとり親」というのも、少しおかしな言葉ですね。お母さんとおじいちゃん、おばあちゃんと暮らしている子の場合は「三人親」とでも言うのでしょうか? お役所の言葉は苦しまぎれという印象がします。

さて、「まま母」の話にもどります。生みの親でない女の人がお母さんになる、という私の話に、子どもたちの眼は、真剣さと不安さが入り混じっていました。自分自身がお母さんのお腹の中から生まれた、という確かな確信を持っているわけではない子どもたちは、ほんのひととき、彼らなりの家族に対する思いにふけっているようでした。

家族の姿というものが、近年大きく変わりつつあります。ステップファミリーもアメリカから輸入された言葉ですが、日本でもめずらしくない家族の形態だと思います。親が義理の母親であっても、里親であっても、必ず不幸になるわけではありません。書店の棚には「離婚しても子どもを不幸にしないための方法」という心理学の書籍(家族カウンセリングを行うカウンセラーのためのもののようです)があるくらいです。

決して離婚を推奨するわけではありませんが、血縁にしがみつく時代ではないことは確かなようです。

世の中のまま母が、みな優しい人でありますように、と祈ります。

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「気になる子」って、どんな子?

保育・教育の業界用語に「気になる子」という言葉があります。

「気になる子の勉強会」とか「教室の中の気になる子」、「『気になる子』を支援する」などというように使われます。

しかし、この「気になる子」がいつから、誰が、どのように使われだしたのか、私はよくわかりません。

一般の方が聞いたら、「気になる子」というのはどういうイメージでしょうか?

私の推測では、「落ち着かない」「集団から外れる」「人の話が聞けない」など問題行動を持つ子どもを指して、「気になる子」と呼ぶようです。

しかし、実はその奥に、いわゆる「軽度発達障碍」と言われる、高機能自閉症、学習障碍、ADHD(注意欠陥多動症候群)、アスペルガー症候群(または、これらの障碍の上位概念として「広汎性発達障碍」と言う場合もあります)の子どもたちを総称して「気になる子」と呼んでいるのです。

これら個々の障碍については、また別の機会で述べるとして、私は「気になる子」という言い方は、問題となる本質、その子どもの障碍の特性をぼやかしてしまうような感じがします。

つまり、軽度発達障碍という概念は、ごく最近生まれたものですが(以前は「軽度」と言えば軽い知的障碍の子どもを指していました)、それぞれの障碍の定義はあるものの、診断が非常にあいまいで、原因もはっきりしていないのです。

それを「気になる子」と呼ぶのは、さらに混乱を深くしてしまうのではないでしょうか?

保育や教育の現場では、いま「気になる子探し」が感染症のように広がっています。少しでも言動に問題があると思われると、その子どもはもう「気になる子」というレッテルを貼られかねません。保育士や教師が子どもたちに対して、疑心暗鬼になってしまう、という状況が生まれているのです。

この問題は、「気になる子」などというようなあいまいな対処をするのではなく、障碍についての正しい情報をすべての保育士や教師がしっかりと理解する必要があると思います。

もちろん、社会一般においても、多くの子どもたちが安易に違う眼で見られ、差別されることがないように、情報を発信していくことが大切だと思います。

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これも韓国語?

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さっそく見つけちゃいました。京王多摩センター駅にて。でも本当かどうか、何と書かれているのか、これから調べてみます。

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韓国語の宿題

次の韓国語・スクーリング授業までの宿題がありました。

街の中で、韓国語の表記を見つけ、書きとめ、その意味と読み方を調べることです。

最近は、韓国語の表示を見かけるようになりましたが、意識してみると、あまり見つかりません。

誰か、こんなところにあったよ! というのがあったら教えてください。

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韓国語との出会い

昨日は、放送大学のスクーリング授業に出席しました。

受講したのは、「初歩の韓国語」です。

初めてハングル文字を学習しました。

ひとつひとつの形に意味があり、その形が組み合わさって、ハングルが形成されていることがわかりました。

「近くて遠い国」と呼ばれる韓国ですが、私にとっては、少し距離が近づいたような気がします。

次回の韓国語・スクーリング授業は、次の日曜日です。今から楽しみです。

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習熟度別指導は教育・保育の切り札か?

2月1日の参院予算委員会で、小泉純一郎首相は小泉改革に伴う社会格差の広がりを指摘された点について、「格差が出ることは別に悪いこととは思わない。チャンスをつかむ機会をたくさん提供することが大事だ」と発言しました。

今、日本の国民は一握りの上流社会と、大多数の下流社会に二極化している、という指摘もあります。

勝ち組、負け組など、格づけすることが大好きなのでしょうか?

東京新聞3日付けの記事の中で、教育評論家の尾木直樹氏は格差を認める風潮が教育現場に悪影響を及ぼしている、として次のように述べています。

「(市場原理の競争に基づいた)新自由主義が社会に浸透してくるにつれ、勉強のできる子もできない子も一緒に授業を受ける教育は『悪しき平等主義』という雰囲気が高まり、かつては差別といわれた習熟度別授業が急速に公立小中学校に導入されていった。しかし、『ゆっくり』クラスでは簡単な授業しかしていないので、子どもたちの学力は向上していない。実態はまやかしにすぎなかった」

小泉首相は「負け組になっても再度挑戦して勝ち組になれる社会にしたい」とも言いました。しかし、尾木氏はこうした視点の落とし穴について述べています。

「義務教育で落ちこぼれ、その格差が習熟度別授業で固定化されてしまったら、再挑戦なんてできなくなってしまう。こんな教育が10年続いたら、国がつぶれてしまう」

実は私の勤務する保育園でも、保育方針のひとつとして「習熟度別の保育指導」というのを行なっています。折り紙ひとつでも、できる子は難しいものを折る、できない子はやさしい折り方でやる。―私は現場で保育をしながら、本当にこれでいいのか、ということをいつも考えています。

保育の場では、ただの折り紙で済まされるかもしれません。しかし、教育の現場・授業では、算数を中心に三グループくらいに分かれた習熟度別授業がごく一般的に行なわれているようです。

私は、下の娘が小学生だった時に、習熟度別授業について担任の先生に文章で次のように質問をしました。

習熟度別のクラスはどのようにして分けるのですか? 成績やテストの点数などで決めるのであれば、その明確な基準を公表してください。

子どもの希望でクラス分けをするのであれば、もし、ある子どもが実力以上のクラスを選んだ場合など、その子どものレベルに合わない選択をした場合は、先生はどのように指導するのですか?

レベルが下のクラスの子どもが、上のクラスの子どもから差別されたり、いじめられたりすることはないのですか?

レベルが下のクラスの子どもたちが、将来的に平均、あるいはそれ以上の学力を習得する機会、指導は行なわれるのですか?

******

小学校の先生からの回答は、一言もありませんでした。当時は先生方も試行錯誤をしているのだろうと思って、それ以上追及することはしませんでした。

しかし、いま現実の保育現場で、自分自身が園の保育方針に基づいて習熟度別指導をしていると、これは子どもの立場からのもの、というよりは「教えやすいという大人の側の論理」ではないかと思うことがあります。折り方が上手でない子どもには、簡単な折り方だけやっていれば保育者は楽なのです。

そして、習熟度別指導は、尾木氏が指摘するように下のグループの子どもは、いつまでも下のグループという危険をはらんでいます。学力の低い子どもがわけのわからないレベルの高い授業を漫然と受けることは確かに問題です。したがって、グループ分けは、一時的な試行としては必要かもしれません。しかし、一度分けられてしまうと、そのままになってしまうのが現状ではないでしょうか。

現在の習熟度別指導は、強者からの視点の論理に過ぎません。

指導というものが、上からの視点で行なわれる以上、悪気ない差別がこれからも続くのでしょう。これ以上発言すると私は今の保育園からスケープゴートされるかもしれません。しかし、多様な、そして子どもの心を考えた保育・指導というものをこれからも、わたしひとりでも、考えていきたいと思います。

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アートバイブル ―その2・旧約聖書②―

「アートバイブル」 日本聖書教会

23.ottobreさんがコメントで教えてくれましたが、宗教画というのは、単に芸術家の作品としてだけではなく、教会に訪れた人々が文字を読めなくても、そこに飾られた絵を観て、聖書の教えを理解するという役割もあるそうです。

それにしても、旧約聖書の中の「士師記」などは、戦いの記述が多く、人々ははるか昔から戦争に明け暮れていたような印象を受けまてしまいます。

「士師記」の中で、サムソンという怪力の戦士が出てくる話があります。「アートバイブル」の中にも、サムソンの絵画はいくつも登場します。ドレ「サムソン、千人を殺す」という絵画などは、地の果てまで兵士で埋め尽くされた凄まじい戦闘の絵です。

その中で、デューラー「素手で獅子を引き裂くサムソン」という絵を観て、ちょっと驚いてしまいました。それは、襲ってきた一頭の若い獅子をサムソンが素手でその口を掴み、引き裂こうとしている絵画です。

私が驚いたのは、このデューラーの絵画と、占いで使うタロット・カードの11番目のカード、「力(FORCE)」の絵とそっくりだ、ということです。タロット・カードの方は、女性が獅子を手なづけようとして、その口をつかんでいるという絵です。

この両者には、何か関係があるのでしょうか?

私はタロットの専門家ではないので、詳しいことはわかりません。でも、タロットの歴史は古く起源がはっきりしないことからも、旧約聖書と何かつながりがあるのかもしれません。

そう考えるとおもしろいですね。誰か知っていることがあったら、ぜひ教えてください。

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幼保一元化に「認定こども園」

新聞報道によると、文部科学省と厚生労働省は、幼稚園と保育所を一元化する新たな総合施設として「認定こども園」(仮称)という新制度を実施するそうです。そのため、法案を3月中に国会に提出し、10月からの実施をめざす、とのことです。

法案の概要によると「教育と保育を一体的に提供」「子育て相談や親子の集いの場を提供するなど地域の子育て支援の実施」などの要件を備える施設を「認定こども園」として新設できるそうです。既存施設に関しては、幼稚園と保育所の連携、幼稚園に保育サービスを付加、保育所に幼稚園の機能を追加するなどして、認定を受けることができるそうです。

幼稚園と保育所の一元化は、私が都立保育学院に在籍した二十数年前からさかんに論議されて来ました。ここでやっと現実味をおびてきたのは、主として幼稚園側の「事情」があるようです。

少子化で子どもが少なくなり、幼稚園は廃園になるか、大規模化・多角化などの方策で生き残るか、というところまで来ています。私が住む東京・多摩市も、この十年間にいつくもの幼稚園が廃園、姿を消しました。幼稚園が経営努力に必死になり、次の開拓すべき市場は、入園前の二歳、一歳、0歳の子どもたちなのです。

保育所は、すでに「子どもを預かる」という役割だけの施設から脱却し、幼稚園の教育的な機能を十分に持っています。また子育て支援事業もかなりの実績を積み上げています。働く母親は多く、入園希望者は依然定員を超えているのが実情です。保育所側にとって、いまさら一元化なんて、と考えてしまうかもしれませんが、将来的には、保育サービスの多角化により、現行制度にあぐらをかいていたのでは、潰れてしまう保育所もでることが考えられます。

制度が複雑化することは、一時的な混乱をまねくかもしれませんが、それぞれの施設の活性化という点においては、今回の一元化・認定子ども園は、それなりに期待できるかもしれません。

ただし、昨今見られるような、民間企業による託児サービスの劣悪な環境を改善したり、地方自治体まかせの無認可保育所に対する助成など、まだまだ課題は山積みだと考えます。

保育所で働く職員ひとりひとりも、情勢と事実を把握して、自分の問題として真剣に考える時代ではないでしょうか。

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